ガエル記

散策

『マダム (Madame)』ステファン・リトゼール

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場所はスイス。
裕福な家庭に生まれ育った青年が恵まれた幸福な成長期の中で自分がゲイであることに気づきながらも皆が言う「普通の男性」であろうとしながらついにゲイであることを確認し家族に告白する過程を追っていったドキュメンタリー作品です。

なんとなく観てしまったのですが、たくさんの実際の映像が存在しているのですね。そのためドキュメンタリーではなくフィクション映画のようでさえあります。

それは本作の監督の父親が映画監督を希望していたことから生まれた奇跡的な産物ですが、やはりとても裕福でゆとりのある家族だからできたのでしょう。

しかし本作の魅力はそれだけではありえません。

なんといっても不思議なのはゲイである監督のカミングアウト作品であるにもかかわらずタイトルが「マダム」であることです。

実はこの映画の主人公は監督ではなく彼のおばあちゃんだった、のでした。

 

映画は彼の成長と同性愛者としての自己確認の過程に沿いながら彼のおばあちゃんの人生を物語っていきます。

90歳になるおばあちゃんの少女時代には「女が勉強や読書などをすると怠け者になる」と言われた時代だったのでした。

監督さんの子供時代ほどではないにせよおばあちゃんも決して貧困というわけではなかったように見えるのですが女子に生まれたため彼女は4歳ほどから家事をみっちり仕込まれ14歳になる頃には料理も掃除もなんでもこなせた、というわけです。男性は「もっと崇高な仕事がある」ためにそんなことをする必要はなかったと。

そして好きでもない男性と結婚させられ出産の時に付き添ってくれることもなかった夫に失望し彼女は離婚を決意します。

その後彼女はその頃ほとんどいなかった女性実業家として活躍し実用性のあるコルセットを販売することで成功していくのです。

しかし一方男性には恵まれず「好きなった男性は私を利用しようと近づいてきた人ばかりだった」として恋愛をあきらめます。なぐさめは美しい自然と「どこかに今までとは違う男性がいると思うこと」が彼女の慰めであったと。

 

ふーむ。

一世紀ほども違うおばあちゃんのお話が今の日本女性の境遇や感性に似ている、と思ってしまいます。

いや他の国の女性もまた同じように思うのでしょうか。

ゲイであることをカミングアウトした孫と時代の先端を走ってきたおばあちゃんは好みの違いはあれど深い愛情と互いを受け入れる思慮があります。

あまりにも理想的なお話、というには苦い経験でもありますがそれでもやっぱりこんなにも強い意志で行動してきたおばあちゃんとその孫監督に感心してしまいます。

多くの苦悩する人たちがこのおばあちゃんと孫のようにその時々の苦難を乗り越えていけるのならどんなにいいでしょうか。

ゲイであると認めるのに長い間躊躇してきた監督が自覚した途端ゲイを社会に定着させようと活動していくのは絶対おばあちゃんの根性譲りだと思われます。

 

なかなかこんなにもまっすぐに行動できはしないと思いますがすてきなおばあちゃんを見る価値はある映画です。

『ダーク・プレイス』ジル・パケ=ブランネール

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以前にもこの映画を観て「良い」という記事を書いたのですがその頃は集中力が欠けていていまいちよくわかっていませんでした。

今回観なおしてすばらしい映画だと再認識しなおしました。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

この作品のテーマは「赦し」であることは主人公リビーが言葉として使っていることでわかりますが、もっと大切なのは人を許した時に最も幸福になれるのは自分自身だということです。

リビーは幼い時に母と姉二人を惨殺され父はおらず唯一残された兄は殺人犯人となって投獄されてしまいます。それ以後のリビーはまさに「ダークプレイス=暗黒の世界」で30年近くを生きてきました。

既に中年の域にさしかかっても彼女には生きている実感がなく常に家族を殺され家族が殺人者となった「あの夜」が彼女を苦しめています。

この長い時間をリビーは「善き人」たちからの援助で生きてきましたがその援助も次第に底をつき次は惨殺事件に興味を持つ人々に頼るようになっていきます。

 

嫌な存在であるはずの「殺人事件おたく」との絡みからリビーの暗闇からの脱出が始まっていきます。

そして指図された「絶対に会いたくなかった幸福な家庭を破壊した兄との面会」がさらに彼女を導いていきます。

 

リビーを演じたのはシャーリーズ・セロン。美しい彼女は短髪にしてつねにキャップをかぶりひょろりとした体に飾り気のないジーンズとタンクトップを着ているだけで終始笑顔はなく、というよりも表情がないのです。

殺人事件の前までは明るく茶目っ気があったリビーは特に兄から気に入られていましたがその彼女は兄を憎み続けてきました。当然だと思います。

しかし家族3人の殺人は兄の仕業ではなく保険金を望んだ母親が雇った殺し屋と兄のガールフレンドが偶然同時に行ったものでした。

兄はガールフレンドの罪と(母親が依頼した)殺し屋の罪を被っていたのでした。

 

リビーは兄が罪を「赦していた」ことに気づきそして彼女自身もそれを認めます。

兄のガールフレンドは兄の子供を妊娠しており兄は自分の娘の将来を案じて罪を負ったのでした。

 

一度も表情を変えなかったリビーがかつて一家が住んでいた家を見に行きそこで昔の自分のような少女が遊んでいるのを見て微笑みます。

リビーは長い暗黒の時間をやっと抜けて人生を歩み始めたのでした。

 

素晴らしいミステリーでもあり人生の物語でもあります。

宗教の物語でもあり時代を写し取った歴史の書でもあるのです。

幸福とはなんであるのかを考えさせられますしそれは自分自身で見つけるしかないのだということもわかります。

小説や映画で数えきれないほど繰り返されてきた題材「殺人」を扱ってこのような特別な表現ができることに驚きました。

 

 

 

『イーオン・フラックス』カリン・クサマ

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今更観終えました『イーオン・フラックス

今まで観る機会は何度もあったのですがなんとなく入り込めなくてこの期に及んでやっと最後まで一応完走したかんじです。

とはいえ嫌だったわけではなくむしろ非常に気になっていたという奇妙に複雑な印象を持ち続けていました。

今となれば確かにそのストーリーはぎょっとするようなものではなく未来社会の定番といえるものではあります。

しかしまたコロナ禍の今鑑賞すると「パンデミック対策ワクチンの為に人間は不妊となってしまい仕方なくクローンを再生し続け不妊治療の研究をするために存在し続ける兄弟と400年ぶりの自然妊娠」という設定が現実になるかもしれないという引きつり笑いをしながら観られますので是非お試しを。

 

もちろん本作はシャーリーズ・セロンのとんでもなく美しい肢体の華麗なるアクションを観るがためのものですが上のイラスト(というか原作コミックなのでしょうか、私は残念ながら読めてませんが)にあるようなSFテイストが吟味できる映像であり、これも初めて知ったのですが日系アメリカ女性である監督カリン・サクマの和風味もあちこちに散りばめられて楽しませてくれます。

 

長年(2005年から)気になっていた(いや観たんだけど)映画をやっと観終えてほっとしています。もしかしたら自分の中にあった女性差別的なものが観させてくれなかったのではとすら思えます。

とてもよかった。

『青天を衝け』NHK大河ドラマ

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ラストに登場したこの画像良いですね。

NHK大河ドラマ、前回の明智光秀には食指が動かず(今更またまた光秀と信長か、という)ちらと見ても惹かれなかったのですが今回は幕末以降という時代背景に非常に期待しています。

 

第一話というのは視聴者をつかまねばならない緊張感漂う回ですが「こんばんは徳川家康です」の北大路欣也氏ですべて持っていかれた感がありました。

肝心の渋沢栄一初登場は子役ではなく吉沢亮渋沢栄一が自分の名前を連呼しながら梅で走り去る徳川慶喜を追いかける、という場面で一気に物語の主要人物を紹介してしまう印象的な演出でした。

主人公の名前を連呼する、というのは富野由悠季氏が『ガンダム』でも使った「主人公の名前を視聴者に覚えてもらう」ための技法ではなかったかと思われます。

ガンダム』では女の子が「アムロ」「カミーユ」と連呼しましたが本作では当人が名前を叫び続けるのがおかしく面白かったです。

 

続く少年時代の栄一くんがいかに強情で行動的な性格だったか、父母から大切な生きる道を教えてもらったか、そして女の子に優しかったかを見せていきます。

子役の少年も可愛らしくて父親の教えにいちいち疑問を挟むのも将来を予感させます。

そして母親役の和久井映見さんがとても良い。

温かい優しい声だなあと感じ入りました。

こんなに母親から愛された子供は幸せです。

 

渋沢家は藍玉を作り養蚕も兼営するという農家でその様子がとても楽しいものでした。

米作だけではなく様々な仕事があるというのも考え方に影響を及ぼすように思えます。

などという人物説明が第一話に凝縮していました。

 

しかし何といっても気になるのは玉木宏演じる高島秋帆です。これも独自の演出ということなのでしょうか。

しかし武蔵で投獄されたというのはあるのですね。これも追々勉強していきたいものです。

 

森喜朗そして誰もいなくなった

とても微妙な時期に入り込んでいる気がします。

安倍政権の後期になるほど日本社会は硬直化して「なぜこんなことに?」という事柄が頻発しました。

もう何もかもがおかしな方向へ進んでいるのにそれをどうしても正しい方向へ向けることができないもどかしさを感じてばかりいました。

なぜこんな間違いを正すことができないのだろうか。

私たちはどんどん恐ろしい暗闇の方向へ引っ張られるばかりでした。私たちを教え導いてくれる誰かは現れないのだろうか。

結局その「誰か」は「新型コロナウィルス」であるように思えます。

もちろんすべてが過ぎ去ったわけではなくむしろコロナ禍のまっただなかに私たちはいるのですからこの導く手がどこへ私たちを連れていくのかはわかりません。

 

それでも長期に渡った安倍政権はコロナウィルスで崩壊したのは確かです。しかも安倍首相が配ったアベノマスクで。

そして今、権力の具現となっていた「トウキョウオリンピック」が最期の足掻きを見せています。

招致をした最後のひとりであった森氏が女性差別発言でとどめを刺されたというのもまた日本社会をこれ以上ないほど表現してくれました。

 

さて森氏を受け継ぐのは誰になるのでしょうか。

一つの占いにもなるようです。

 

 

『CURE』黒沢清

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昨日の『残穢【ざんえ】 -住んではいけない部屋-』(中村義洋監督)で酷く気持ちが傷ついたので急遽何度も観た『CURE』を再生しました。

なんでこの映画?と思いましたが本作の『CURE』は癒しという意味なので図らずも正解だったようです。

 

残穢』で日本映画に失望するのもあんまりではありませんか。

日本には黒澤と黒沢がいる。それだけでも十分でおつりがきます。

 

まあ名前にこだわるのはいけませんがとにかく『CURE』はとても良いです。良いということで癒されます。

本作ほどのホラーはないと思います。が、一般のホラーで常套手段の怖いだろう映像や演出はありません。

それなのにこれほど恐怖を覗かせられる映画もないのです。

黒沢監督作品は他にも良いものが幾つもありますがやはり本作は特別に怖い。幽霊とか化け物とかではなく自分自身が怖くなってしまうのです。

観ているうちに自分自身が『CURE』されてしまう気がして怖いのです。

というかもうすでにされてしまったのかもしれません。

自分自身が怖くなる。それ以上の恐怖があるでしょうか。

しかも何度も観ているというのはしばらく経つと自ら『CURE』してもらいたくなってしまっているということです。

間宮のあの声を聴きたくなってしまっているのです。

 

日本映画に失望しそうになっても『CURE』があるよと思うのも怖いです。

 

 

『残穢【ざんえ】 -住んではいけない部屋-』中村義洋

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悪評なのでそういうのが嫌な方は読まないがいいです。

 

ネタバレ、するほどもないですが一応ご注意を。

 

 

日々韓国映画に感嘆する評ばかり書いているのですがたまには日本映画を観てみようと思いかなり評価が高かったのでそれなりに期待して観たのですがあまりにもがっくりしたのでささっと書いて終わりにします。

「じっとりとしたジャパニーズホラーを丁寧に描かれている」

といったなかなかの好評を得ている本作なのですがなにもかも中途半端で丁寧ではないとしか言いようがありません。

こんなに怖いものはない、と言われているものを「怖くない」というのはフラグなので書きたくないのですがこのやり方で怖がらせるのは幼稚と感じました。

 

いかにもなホラーによくある映像をつないでいるだけなのです。

ホラーっぽい色彩、ホラーっぽいテンポ。

主人公の作家もパートナーとなる女学生もありがちでそれ以上の深みや面白みがないのですね。

いったいどうしてここまで面白くなくなってしまうのか不思議なほどです。

 

ホラーを観て怖いのではなく日本映画とはこんなにもしょぼいのかと悲しくなりました。