ガエル記

散策

『一度きりの大泉の話』萩尾望都 その4

 また更に書くことになってしまいました。これもTwitterでフォーローしている一色登希彦氏のツイートを読んで「そうそう、そうなんだ」と自分の気持ちをまとめてもらえたように思えたからです。

 

一色氏が書かれている「これは私たち自身のこととして受け止める」という文章はとても大切なことでもう一度ここで書き留めたくなりました。

 

私自身非常に仲の良かった友人と棲み分けようと決意したことがあります。

それは萩尾さんが経験したは物凄い破壊的な事件ではなく幾つもの重なる小さなすれ違いなのでしたが一時期これがとても苦しく、これ以上交流を続けない方が気持ちが安らかになる、というはっきりした意思を持って分断したのでした。

ある時ある百貨店で家族と店内を回っていた時その人が近くにいるのを家族が見つけ私に告げました。

「久しぶり」と声をかけるだけで通り過ぎることもできたのですが私はあえてそちらを見ないようにして通り過ぎ家族は不審がっていましたがそれも無視しました。その人とのつながりを再び結ぶことはない方が良いと離れたのです。

 

多くの誰もがそうした経験を持っているのではないでしょうか。

これもまた一色氏が書かれているように萩尾さんも当時からの読者も年を取って多くの悲喜を経てわかってくれるのではないかと願いこの本をやっと書かれたのでしょう。

 

しかしそれだからこそ多くの人々もその経験をし別れの悲しみを知ったからこそ再び出会う奇跡を望む気持ちもあるのだとも言えます。

そういう私自身が奇跡的再会をあえて見過ごしたにもかかわらず心のどこかでまだ運命を見つけたい気持ちがあるのです。

だけどそれは無理やりできるものではありません。

 

 

(ここから作品のネタバレしますのでご注意を)

 

 

 

 

物語にも喧嘩、恨み嫉みなど何かの形で決別した友人が再び手をつなぐ再会を描いたものは多くあります。

それらは私たちに大きな喜びの感動を与えてくれます。

例えば樹村みのり『早春』の女性たちから。

しかし思えば萩尾望都『十年目の毬絵』で毬絵は死に残されたふたりの男たちも今後仲良く交際を再開するようには感じられません。

萩尾氏の作品で仲たがいした二人がよりを戻す話があったのかどうか。

例えば『バルバラ異界』で仲たがいした父息子は最後まで修復できず修復できたようにに思える息子は別の意識体として描かれます。

喧嘩しつつ仲良しならいいのですがいったん決別したふたりが仲直りする話はあったのでしょうか。

それは萩尾さんの両親の話とも重なってくるのでいっそう困難になりそうです。

 

記事内容が錯綜してしまいました。

 

こんなにも苦しいならもう会わないようにしよう、という考え方(私自身やりました)

もう一度会って再び関係性を修復するという考え方(もちろん多くの場合大なり小なりこれをやろうと努力する人生です)

人生の中で誰もがこうした選択を繰り返しているのです。

 

 

『一度きりの大泉の話』萩尾望都 その3

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もうこの話は一段落、とおもっていたのですがツイッターで「村田順子さんのブログ」を知りましてその記事をリンクして少しまた書いてみます。

 

blog.goo.ne.jp

 

竹宮惠子氏側のかたの目から見た感想である、ということもあり私はなるほどなあと思いました。そう、竹宮惠子氏側の目からはやはりこのようにこの事件を見て感じてしまう、のでしょう。

関係ない人の目からも同じように「確かに酷いことを言ったかもしれないが謝ったのだし許してやれば」と思う人もいるでしょうし「もう元通りにはならないのだしきっぱり離れてしまったほうがいい」という方もおられるでしょう。

 

ひとつの事柄がこのように違ってくるのです。

 

萩尾望都さんは長い間、というより人生を通して両親との確執をついに解決できないままでいた人です。

これも人によっては「親なんかごまかして適当にあしらっていればいいじゃないか」ということもできます。実際多くの人がそうやっているはずですが萩尾さんにはそれができなかった。お話を読む限りご両親が生きている間にしっくりくる和解はなかったのです。

ずっとマンガを描くことを反対されその価値を認められず侮蔑の言葉すらかけられていたのにある時急に(というかNHK水木しげるドラマが放送されてから)その価値を親に認められ「今まで反対したことなんかないよ」と言われてしまう。それでも実の親なので完全に縁を切ることもできなかった萩尾望都さんの苦しみは人によっては共感し人によっては「それ普通のことじゃない?」ということなのです。

 

竹宮惠子さんは本当に理路整然のかたなのでしょう。

自分の非をきちっと片付け仲直りしましょうと手を差し伸べた。

これも見る人によっては勇気ある正義の判断と行動なのでしょうがそれをすべての人に押し付けることはできないのです。

竹宮氏は唯一のライフワークであった『風と木の詩』を描き上げて「これでもうマンガ家としての仕事は終わりました」と別の道に進んでいったように見受けられます。正直それ以外の作品は後に残るほどのものはないと私は思っています。

萩尾望都氏は有名な『ポーの一族』『トーマの心臓』後の作品にさらに深く語るべき作品があります。私は萩尾SFが特別に好きでここまでのSF世界を築けた人は日本にはそれほどいない、と思うのです。

しかしそれは萩尾望都氏が深く深くものごとを考えるからこそなのでもあります。

「ま、いいか」ですまされない思考は諸刃の剣でもあるのでしょう。

萩尾氏が物語を考える時深海の底の底まで落ちていくようにして考える、そこから上がってくるのには物凄く時間がかかるのです、と書かれているのを読んで怖くなったものです。

他にここまでできている人はいるのでしょうか。だからこそ萩尾氏の作品は一つの世界になっている、とも言えます。

 

私は最も多感な中学生時代に竹宮惠子萩尾望都に夢中になった世代です。

先に知ったのは萩尾望都の『ポーの一族』でした。なんとメリーベルの消滅の場面から読んでしまったのですが、そのマンガのあまりの衝撃に何度も読み返し呆然となりました。

が、実はその後竹宮惠子を知って「竹宮先生のほうが上手くて魅力がある」と思っていました。

今思うと「お前の目は節穴か」というべき失態ですが少女期というのはそういうものなのでしょう。

しかもその後吉田秋生の『カリフォルニア物語』を知って「萩尾・竹宮はもう古い。これからは吉田秋生だ」と乗り換えました。お前の目は節穴か。

吉田秋生氏は今でも活躍ですが私は『バナナフィッシュ』で吉田氏には決別しました。彼女の感覚に嫌悪を感じ始めたのです。他の人と逆かもしれませんが。

萩尾望都氏の『残酷な神が支配する』がどうしても好きになれず萩尾氏に戻ることもないまましばらく、というか結構長い間別のマンガを読んだりしつつマンガ自体をあまり読まなくなりました。

萩尾望都を再び読みだしたのはいつだったのか、今でははっきり覚えていません。

とにかく『バルバラ異界』を読んで衝撃を受けました。今ではこれが萩尾望都の最高作品と思っています。ま、最高作品が多すぎるのですが。

『マージナル』『銀の三角』『スターレッド』『アウェイ』もちろん『11人いる!』『ブラッドベリもの』『百億の昼千億の夜』などなどSFが大好きです。

嫌だった『残酷な神が支配する』も読み返してやはり凄い、と確認しました。好き、というのとは違いますがこれで萩尾望都氏が一種の自己浄化をされたのではないかとも思われます。

短編では『エッグ・スタンド』『半神』『アロイス』『アメリカンパイ』などなどなど。

もう挙げていったらきりがありません。

 

それでも一時期、というか長い間萩尾望都を読まずにいました。良いと思っていない時期もありました。今となっては信じられない判断です。

もうこれからはそんなことはないと思いますが、人の好悪というのはそんなにも曖昧です。

萩尾望都さんの気持ちがどうなるのかはわかりません。

私は何度も『十年目の毬絵』に無意識が描かれてしまったのではないかと書きました。今でもそうは思いますがその作品自体が40年以上前なのです。

その後扉は閉ざされていたのに竹宮氏がその扉をたたき、萩尾氏もたたき返さないわけにいかなくなりました。

ひとつの変化があったのには違いありません。

しかしそれからどうなるのか。

 

力なき民人が女神の判断をそっと伺いみるようなそんな雰囲気を感じています。

 

 

 

 

 

『一度きりの大泉の話』萩尾望都 その2

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もう少し続けます。

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

先に書いた文章の中で私は「萩尾望都氏は『十年目の毬絵』で無意識に自分の思いと願望を描いてしまったのだろうか」と書きました。

とはいえ『十年目の毬絵』は1977年にビッグコミックオリジナルに掲載と書かれています。驚くことに大泉から出てそれほど時間が経ってはいない時期なのです。タイトルにあるように十年はまだ経っていない時期なのです。

しかし本当にいろいろ現実と符号する物語なのです。物語の3人が共にいたのは20前後で3年間というのもほぼ同じ。そして『一度きり』の中で繰り返し萩尾さんが自分自身を卑下するところなど主人公の島田氏にそっくりです。

その島田氏に毬絵が手紙を書くのです。

 

あのころがなつかしい

ただ ただ なつかしい

なぜわたしたちは

いつまでも三人で

いられなかったのでしょう

なぜ三人で

いられなかったのですか

 

『一度きり』ではあの頃を思い出すものがすべて怖かった、というようなことが書かれていたのにまるであの頃のことを描いているかのように思えるこの言葉は萩尾さんの中では重ならなかったのでしょうか。

 

むしろ年月を増すごとに萩尾さんの中で重く沈んでいったのでしょうか。

そして竹宮氏の著書は読まずとも萩尾さんへの嫉妬は書かれていても謝罪は書かれていないように感じられることがまた辛く思えたのでしょうか。

 

これまでも私たちは多くの競い合いの物語を見てきました。

ふたりの話を読んでモーツァルトサリエリクリス・エバートナブラチロワを或いはまた清原と桑田を思い出す人もいるでしょう。

 

確執があったふたりが仲を取り戻す場合もあればそうならない場合もあるのです。

萩尾さんと竹宮さんが再会し友情を取り戻せるのかそうでないのかは誰にもわかりません。

しかし萩尾さんも本著に書かれているように離れているはずなのになぜか接点ができてしまう不思議もまたあるのです。光瀬龍氏、寺山修司氏、安彦良和氏そして同じ時代の話を取り上げてしまう奇妙な縁。

しかも徳島県生まれの竹宮氏が長く住まれたであろう関東を離れて萩尾氏が生まれた福岡県に在住されているというこれもまた不思議な縁を感じてしまうのです。(今現在どうかはわかりませんが)

 

『一度きりの大泉の話』は萩尾望都氏にとっては非常に辛い記録となったのでしょうが長くふたりの物語(正確には三人の)がどのようなものだったのか気になっていた者たちにとってはほっとしたような安堵感もまた会ったのではと思います。

結局竹宮惠子氏は『風と木の詩』を描くためだけにマンガ家になったのでは、とさえ思えます。

一方の萩尾氏は『ポーの一族』『トーマの心臓』も確かに素晴らしいのですが年月を増すごとに凄い作品を作り続けた人です。私は『バルバラ異界』が最高傑作と思っています。やはりSFマンガの大家と評したいのです。

本著で萩尾さんがSF話ができないでいたのが気の毒でした。私も完全に趣味が重なるわけではないですがブラッドベリハインラインの話はしてみたいです。

 

多くのファンの方が書かれていた「そっとしてあげたい」という言葉に尽きるのではないでしょうか。これからどうなるのか、どうもならないのか、それは誰にもわからないことで運命にゆだねるしかないのです。

 

『一度きりの大泉の話』萩尾望都

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他の多くの方と同じように私も一度読み始めたら止めることができず無我夢中で読み続けてしまいました。

そして多くの方と同じように私もこの本より5年前に出版された竹宮惠子著『少年の名はジルベール』を当時に読んでいます。

他の方のレビューを見ていると本当に真摯にお二人の作家の著書を読まれ感慨を持たれているのが伝わってきます。そして感想は書けない、どうぞもうこれで誰からもこの話について煩わされることがありませんように、という言葉が多く見受けられました。

 

そんな中ですが私としては皆さんより少し多めに文章を書いてみようかと思います。やっと一度読み終えたきりですがその状態での感想です。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

もちろんこれは萩尾望都作品のファン、というだけの私が書いた妄想にすぎません。彼女の作品が好きでかなり読んできたつもりですが萩尾氏自身については他のファンのかたよりはあまり追いかけてもいず情報も知らないのではないかと思います。

 

竹宮惠子著『少年の名はジルベール

萩尾望都著『一度きりの大泉の話』

二冊は同じ事柄を書いているはずなのにまったく違う内容になっています。

最も問題なのは萩尾望都著に書かれている竹宮惠子氏から受けた「盗作したのではないのか?」という言葉が竹宮惠子著にはまったく書かれていないことです。

萩尾氏は竹宮・増山両氏からまるで宗教裁判のように「なぜ、「小鳥の巣」を描いたのか」「なぜ、男子寄宿ものを描いたのか」「なぜ、学校が川のそばにあるのか」とまで問われ続けます。

そしてその後さらに竹宮氏から渡された手紙の内容にショックを受け萩尾氏は目が見えにくくなり倒れてしまうほどまで追い詰められてしまうのです。

なのに竹宮著には萩尾さんの優れた才能への嫉妬に苦しんだことが書き連ねられるだけで萩尾氏はいたって飄々とした感じで記されしかも肝心の竹宮氏の萩尾氏への「弾劾」は書かれていません。

これについては多くの方が指摘されていました。

が、本当にまったく「そのこと」は書かれていないのでしょうか。

竹宮氏は自分が言った萩尾氏への「ひどい言いがかり」を隠匿してしまったのでしょうか。

いや竹宮著には書かれているのです。

それは著書178ページの

 

どうしようもなくなった私は萩尾さんに、「距離を置きたい」という主旨のことを告げた。それは「大泉サロン」が本当に終わりになることを意味していた。

 

に当たるのではないでしょうか。

萩尾著で書かれた彼女への恐ろしい呪詛ともいえる竹宮氏(と増山氏)の盗作疑惑を意味する言葉の数々、萩尾氏を絶対に許せないという状況にまで追い詰めた言葉は竹宮著では

「距離を置きたい」

という一言で書かれてしまっているのです。

これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

 

 

萩尾望都氏は非常に丁寧な落ち着いた言葉を選んで書かれていますが「もう二度と復縁することはない」という強い意志が感じられる言葉も選ばれています。

「覆水盆に返らず」という一文はまさにそれですね。

それほど萩尾望都が受けた衝撃は深く強いものだったのでしょう。それは彼女だからこそその衝撃を覚え深く傷ついたのではないかと思います。

萩尾さんは両親から「マンガ家になる」という人生の選択を反対され続けてきたと言われています。そして彼女自身もその仕打ちを許すことなく苦しみ続けてきた人でもあります。

竹宮惠子増山法恵ふたりは萩尾さんにとってそんな自分を理解してくれた新しい親にも思える存在だったかもしれません。それは「同居する」という状況に入ることからも連想されてきます。

 

一方竹宮惠子氏にとってこの同居は青春そのもので若いマンガ家ふたりとそれを支持する知識人の情熱を感じられます。ただ編集者氏の不安どおりに竹宮氏が萩尾氏の才能に対して嫉妬し彼女もまた苦悩し体調を崩しどうしようもないところへ追い詰められていくわけです。

 

竹宮氏の記述は理路整然として読みやすく理解しやすく共感できるものでした。

ただ、萩尾氏の著書はそれを大きく揺るがせてしまうものだったと言えます。

竹宮氏が

「距離を置きたい」

という一言で表現した状況は萩尾氏に対して「盗作疑惑」をかけその後「すべて忘れて欲しい。なにもなかったことにしてほしい」と言いさらに「近寄るな」という手紙で締めくくられます。

 

いったい二人のうち、どちらが真実を言いどちらが虚偽を言っているのでしょうか。

 

たぶんどちらも真実を言っているのでしょう。

もしくは真実のつもりを言っているのでしょう。

竹宮氏にとっては「あなたの凄い才能に私は苦しんでいる。だから」

「距離を置きたい」

と言っただけ(のつもり)だったのでしょう。

盗作の嫌疑はかけたけどよく考えて思い直し「あのことばは忘れて何もなかったことにしてそして私にもう近づかないで」と伝えてすべては終わったので書く必要はなくなったと判断したのです。

しかし萩尾氏にはそのすべての事柄が彼女を錯乱させたのです。

聡明な竹宮氏にはそれがわからなかったのです。

才能ある萩尾氏がわからないわけはない、と思ったのかもしれません。

 

竹宮氏の理路整然とした知的な『少年の名はジルベール』に対し萩尾著『一度きりの大泉の話』はページ数も多く文章もまとまりがなく文体も落ち着きがないのですがそれだけにより萩尾氏の苦しみが激しいことが伝わってきます。

抑えようとしても抑えきれない怒りや恨みがあちこちから滲みあふれ出てきています。

それを知るのはやはり辛いことでもありました。

 

私は以前こんなブログ記事を書いていました。

blog.goo.ne.jp

これは萩尾望都『十年目の毬絵』について書いた記事です。

この時はむろん萩尾氏の気持ちを知らなかったので私はもう少し気楽に考えていました。

しかし今回萩尾氏の心を知って『十年目の毬絵』の意味は何なのだろうか、とますます考えずにおられません。

ふたりの画家男性とその間でふたりに愛された女性毬絵。

才能がありかっこいい男性に描かれた画家は毬絵と結婚しもう一人の冴えない男から離れていきます。

冴えない男は毬絵を夢に見て泣くのです。

そして再会した二人の男は三人で過ごした日々がなんと輝いていたかと思い起こします。

これは萩尾氏がかつて過ごした竹宮氏増山氏との青春を懐かしんで描いのだ、と(ほかの人に言われて気づいたものの)思わずにはおられません。

しかもふたりの画家の思い人の名は毬絵、まりえ、です。

「まりえ」は増山法恵=ますやまのりえから取り出すことができるのです。

しかし今回萩尾氏は著書で「まったく懐かしくない」と書かれているのです。

 

ではこのマンガはなんなのか?

 

意識してこのマンガは描けないはずです。

では無意識に萩尾望都はこのマンガを描いてしまったのでしょうか。

毬絵=まりえ、の名づけの際に「増山法恵=ますやまのりえ」を重ねてしまったのは偶然だったのでしょうか。

画家であること、毬絵を連れ去り、会わなくなったこと、自分を冴えない奴だと思い込んでいること、すべてが符号しているのになぜ萩尾望都はこのマンガを描けたのでしょうか。

 

萩尾望都さんは深く深く考えて物語を作り出す、と以前読みました。

そんな方だけにその思いもまた強く深いのだと思います。

その方が描いたこの短いマンガの訴えている声は「もう一度会いたい」なのです。

 

 

 

『月に咲く花の如く』その6

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27話鑑賞中。ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

いや面白いです。

 

東院を立て直すためにケシを栽培して阿片で儲けようとした周瑩ですが、目をかけていた老人夫婦が阿片のせいで亡くなった事件で育ったケシをすべて焼却してしまいます。

ケシの収益がなかった周瑩は資金繰りに苦悩し義母のなけなしの金を盗み出してしまいます。

ここで驚いたのが義母・鄭氏がなんと周瑩を趙白石に訴えてしまうのです。正義の人・趙白石は容赦なく周瑩に棒打ち三回を命じます。

「これで懲りたか」という趙に周瑩は「これで義母の金を盗んだという良心の呵責が無くなり義母も怒りが哀れみに変わりました」と言い返す。

事件の間の寸劇かと思っていたらちゃんと理念の入ったエピソードだったのです。

 

周瑩には恩義があるのだから金を貸すのは当たり前じゃないかという私は浅はかでしたw

どんな小さなところにも理を通す周瑩の話は素晴らしい。

翻って沈四海は魂を杜明礼に売り渡してしまいます。

これまではぐうたら息子だった沈星移のまっすぐで高い自尊心のほうが正しいのです。

 

ところで杜明礼と査坤にはBL噂はあったのでしょうか。かなり意識してる気がするんですが。

 

胡家の父娘も大変です。

 

 

『月に咲く花の如く』その5

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ますますネタバレします。ご注意を。

 

 

 

 

まだ三分の一もいっていない途中経過でこの物凄い展開。

こんなドラマありますか?

 

 

めちゃ優しくて男前でヒロインと相思相愛の夫君・呉聘が死んだだけでも衝撃恐ろしかったのに、唯一の心のよりどころであるお腹の子供がなんとも虚しくダメになってしまい、ついにはヒロインが死亡。ドラマ終了。残る三分の二は主役なきままに進行するドラマは他にないでしょう。

 

ということはさすがになくて周瑩は養父・周老四の機転で助かりました。助けを求めた相手がなんと沈星移。

今まで心底嫌悪しかなかった沈星移がこんなに頼もしい男だったとは。

沈星移は単なる馬鹿坊ちゃん役ではなかったのですね。

 

それにしても周瑩のかっこいいこと。

日本ドラマでもお転婆娘、ずけずけ発言する女子は出てきますがここまで強い女性は考えられたこともないのでは。

さすが世界一強い女性の名は伊達ではありません。

 

そして一族から死刑ともいえる殺害にあった周瑩は東院に戻る決意をします。

しかし義母だけが残った東院はすべてを奪われてしまった後でした。

一から立て直すしかない周瑩のもとへ集まった学徒房の男子たちに思わずほろりとしました。周瑩にいつも寄り添っている侍女・春杏にもじんとします。

ふらふらしながらも周瑩を心配する周老四、いまだに周瑩への未練を断ち切れない沈星移。

正義の人・趙白石、ちょい過剰な王世均、悪党道をひた走る杜明礼、ますます面白そうになってきてやはりもう離れられない決定のようです。

 

 

 

 

『月に咲く花の如く』その4

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今回マジでネタバレですのでご注意を。

 

 

 

 

 

 

まさかまさかの・・・・。

いや確かにあまりにも呉聘がかっこよすぎ優しすぎ最初からふたりイチャイチャし過ぎでこれじゃもうハッピーエンドと同じじゃないか、と思ってはいました。なのでもう観る必要ないかなとも。この突然の死のための布石だったのですね。

ラインハルトにとってのキルヒアイスくらいの衝撃です。

 

そうです。呉聘が急死してしまいました。

もしや「嘘」では?とまで思ったのですがさすがにここまできたらもう本当なのでしょう・・・。

驚きなのは呉聘が死んでしまったならもう観るのやめようかな(こればっか)と思ったのにもかかわらず以外にもそれ以後の展開が面白いのですね。

周瑩は無論激しく嘆き悲しみましたが物語はねちねち泣きの芝居に留まることなくむしろ加速して進み始めました。

もしかしたら、というかきっとこのドラマはこれ以降が本番なのですか。

確かにラインハルトもキルヒアイスがいなくなってから、というのは置いとくとして。

 

これでオープニングテーマも理解できます。

ますますこのドラマ観賞から離れることができなくなってしまいました。

 

しかも威厳ある義父・呉蔚文まで亡くなってしまったのです。

そして周瑩のお腹には呉聘との子供が。

 

これから物語がマジで始まるということですな。