ガエル記

散策

「マクマーティン児童施設裁判〜」 そして「小山田圭吾事件」

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1980年代のアメリカ伝説的裁判!児童の組織的性的虐待悪魔崇拝の強要?しかし子どもの証言は矛盾だらけ。いったいなぜ?記憶とは?真実とは?混乱の裁判の結末は?

 

という番組でした。

結果をウィキペディアから引用しようとしたら

 

全ての容疑について1990年に無罪となった。

 

とされているのですが番組内で容疑者はアメリカの裁判において

 

NOT GUILTY=有罪ではない、となったのであって無罪というわけではない

 

という説明があり確かに番組内容を観ていけばいったい誰が正しくて間違っているのか、容疑者がこどもたちに加害したのかそれはどういうことだったのかそれとも何一つ起きなかったのか何もかもわからなくなってしまう。

そしてそうした混乱は人々の善意から引き起こされたものなのだというのである。

 

もちろんこの番組自体が観る者を混乱させようとしている目的がまったくないわけもないはずです。混乱するほどこの事件の恐ろしさが伝わるだろうという思い入れはきっとあるでしょう。

それに果たしてほんとうに「善意」だけで混乱が引き起こされたのかもわからないはずです。子供たちを助けたい、こんな犯罪を許してはならない、という正義とは別に事件を面白おかしくしたい、人々の興味を惹きたい策略は様々な人にあるからです。事件関係者だけでなく噂話をする無関係者の間でも。

 

さてそんな思惑が交錯する中、当事者である子供たちはセラピストや親によって容疑者からどんな虐待を受けたのか、奇妙な黒魔術的儀式を経験したのかを告白していくのです。

番組ではそうした子供たちの証言は主にCII(国際児童研究所)セラピスト・カスリーン・マクファーレンの巧みな誘導尋問から発せられたものだとしています。このセラピストは子供の証言より先に容疑内容を子供に問いかけて子供がそれを否定すれば疑問を呈し子供が肯定すると褒めたたえるのです。そうなると利口な子供ほどセラピストの言葉どおりに「そういう目にあった」と証言していくのです。

そしてその問答を繰り返していくうちに子供たちは与えられた情報を

「本当にあった体験として記憶してしまう」

というのがこの番組の「ダークサイドミステリー」なのです。

 

最後に渦中にあった一人の女性が20年後に再び証言をします。

 

あの時幼い私は容疑者とふたりきりになって恐ろしいことをされた。その記憶は何度も蘇ってきて私を苦しめてきました。あれから私はもう誰も信じることもできなくなってしまったのです」

 

さてこの証言は真実の記憶なのか、それとも作られてしまった記憶なのか。

と番組は追い打ちをかけます。

しかし本当に何も起きなかったのに「嘘の恐怖」を植え付けられそれが原因で誰も信じられなくなってしまったのなら、それは悲劇です。

 

そして番組は念入りにこう忠告します。

 

「この事件から様々なことが変化しました。もし子供が(大人でもでしょうが)「こんな目にあった」と被害を告白しても「この子は(この人は)嘘の記憶を植え付けられてしまったのだ」という疑惑が生まれるようになったのです」

 

そう。もしこの番組を馬鹿正直に受け入れてしまう人がいたら被害を受けた人の証言を否定することができます。

特にこの事件と同じようにそれが性被害、いじめ、ハラスメント、後の残らなかった暴力の場合大きな危険性を持ちます。

そして事実そうした被害の否定は今も人々を苦しめ続けています。

 

やや違う方向性ですが、今ちょうど「オリパラ開会式」に関する作曲担当としてコーネリアス小山田圭吾氏が選出されたことが問題になっています。

彼はほぼ25年前ロッキンジャパンそしてクイックジャパンでいくつものいじめや身障者に対する侮蔑や暴力を行っていたことを語っていました。

偶然私はロッキンジャパン1994年一月号を買っていて手元にもっていたのですがその目的がブルーハーツだったためもあって件の記事を読んでなかったのでした。

 

さて上の番組を見てからこの事件を知ると様々に思惑が訪れます。

小山田氏はすでに謝罪文を公開していますので過去の事件が完全な嘘ではなかったのでしょう。

しかしその謝罪文には「雑誌インタビューでは虚偽があったのですがそのまま放置してしまいその後も謝罪をしなかったのは保身の気持ちがあった」とも書かれています。

ネットユーザーなどの反応を見ていると「あまりに残酷ないじめで許されるものではない」「被害者は一生傷を負っていく」「パラリンピックの作曲家が障碍者いじめをしていたという恐怖」という言葉であふれていて私自身もそう考えています。

が同時に過去のーこの場合はー記憶ではなく記録を書き換えることはできない恐ろしさも感じます。

 

そうしたいじめが放置されてきた「学校」という場所への疑問は今もなお変わらず存在しています。

そして人格教育の必要性も軽んじられてきたのです。

いじめられた経験はよく話題になりますが「いじめた経験」はあまりされないのは勿論それを恥じる意識があるからです。

私自身いじめられた経験もあるならいじめた経験もあります。

しかしそれを自慢として話したくない羞恥もまたあります。

多くの人がそうではないのでしょうか。

 

小山田氏のいじめはあまりにも度が過ぎていてこれが「雑誌側の受けを狙った嘘」なのかもしれません。

彼自身がいうとおり若気の至りの見栄っぱりそして未熟さ、などを考えもします。

 

とはいえ結局それは「自分が招いたもの」です。

 

私はこれまでその人が表紙だった雑誌を買っていたにもかかわらずコーネリアスおよび小山田圭吾というミュージシャンをまったく知りませんでした。

多くのファンがこの掲載記事で離れていったというのも今回知りました。

私は彼の次に載っていたブルハしか見てなかったのです。

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この記録はどうにもなりません。

私さえ持っているのです。

 

いじめの被害者は絶対に守るべきです。

いじめ自体はなくなるはずがない。その被害をどう少なくできるかを考えていかねばなりません。

しかし日本政府はいじめをなくそうという気持ちいじめ被害者を守ろうという気持ちをまったく持っていないのです。

そこを変えなければなりません。

小山田氏が本気で反省するのならそうした社会を変えていってほしいのです。

 

 

『メイドインアビス 深き魂の黎明』

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この素晴らしいアニメを観て大きく二つの感情が渦巻いていてあっさりと書いてしまうのが難しいのです。

しかしなんとか文字にしないと伝えられないので書いていきます。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

まずはアニメーション映画として凄く面白く質の高い作品です。

直視できないほどおぞましく不気味で残酷な内容です。愛らしく子供っぽい絵柄で何とか観れる、という言い方もありますが私はその子供子供した愛らしさがより惨たらしさを倍増させる効果になっていると思えます。

かつて戦時中に日本やドイツで行われた人体実験を思い起こさせる(こういう時なぜか必ず「ナチスが・・・」と表現されるけどナチスほど有名でないだけで大日本帝国も同じくやっていたわけです)子供たちに行った肉体を破壊すればどういう現象が起きるかという手術を限りなく続けていくのが本作の敵役・ボンドルドです。

 

彼によって自らも実験台となりその後その助手をさせられたナナチは彼を激しく憎悪しています。

 

舞台は地上に開いた未知の世界である大穴「アビス」何層にもなるその大穴には人間が作り得ない宝物が潜んでいると言われる。

主人公女子リコはその秘密を暴くため、ロボット少年レグは自分自身が無くしてしまった過去の秘密を取り戻すために大穴「アビス」を探検する。そして一見ウサギのような(しっぽが長いが)容姿の少年ナナチはふたりを助けようと決意している。

 

未知の大穴、というのはわかりやすく人間性、心理の底はどうなっているのだ、の比喩にほかなりません。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

をそのまま作品化したのが本作なのでしょう。

倒しても倒しても復活して襲ってくるボンボルドの存在は当たり前です。

恐怖はなんど打ち消してもまた新しい恐怖がすぐに生まれてくるからです。

それは生きている限りなくなるわけはありません。

恐怖を持たない、というのは危険なことなのですから。

 

その恐怖を生み出すボンボルドの正体は観る人によって違ってくるでしょう。

幼少期に親から虐待されていた人は最も連想しやすいかもしれません。

ボンドルドを父親と慕う愛らしい少女プルシュカはボンボルドにとって単なる実験材料に過ぎないのです。

肉体的虐待だけでなくやりたくもない勉強、宗教、過度な躾、親の望むスポーツや芸能などまたは家業や家事、家族などの世話や介護を強制されるなどというような現在ではハラスメントと見なされる過去に苦しめられた者はそれらをボンドルドに重ねてしまうのではないでしょうか。

そしてそれを強制した親たちはむしろそのことを「美徳」と考え自分たちの考えと行動は「良いこと、立派なこと、尊敬されること」と信じているのです。

そう考えればボンドルドがなぜあれほど自分の行動に微塵も疑いがなく丁寧で愛情に満ちたと見える態度でいるのかわかります。

勉強させてより良い大学に行かせること、素晴らしいスポーツマンに育てること、家族の介護、家業を継ぐ、同じ宗教を信じさせることは間違いなく素晴らしいことだと確信していても不思議はないのですから。我が子にそうした教育をしている親は自分の教育を正しいと思っているものです。

 

ナナチはその虐待を受けた経験を持つゆえにボンドルドを憎み切っています。そしてその手助けをした自分自身を恨んでいるのです。

 

もちろんボンドルドの正体は「親」だけでなく学校の教師であり会社の上司であり政府の役人、政治家でもあります。

つまり絶対的に自分の上に立つ者、自分を支配する者、の具現者がボンドルドなのです。

とはいえやはりボンドルドの正体が「親」であることが最も恐ろしいことには違いありません。

それゆえ本作でもボンドルドはプルシュカというまだ幼い少女の「親」と表現されているのです。

ある程度成長してから出会い他人である教師や上司や政治家ならば戦うことができても赤ん坊が親に抵抗するのは無理だからです。

自立することができない許されない方法がない未成年者にとって親がボンドルドであることは死を意味します。

もしくは精神の死です。

 

そうした意義を込めて作られた『メイドインアビス』が面白くないはずがないのです。

彼らの深淵への旅はまだまだ続くようでこれからも楽しみです。

 

そして冒頭で書いた「大きな二つの感情」のもうひとつが

「やはりこれもまたバトル形式か」

ということです。

 

実を言えば日本のマンガアニメ、特に少年向け、とされるもので「バトル」を無くすことは想像することができないのかもしれません。

この場合の「バトル」とは「勝負=勝ち負け」と書き換えてもいいものです。

スポーツもの戦争ものであればそれそのものが「バトル」です。もちろん勝負を抜きにした戦争もの、スポーツものが描けないわけではないでしょうが日本の少年向けマンガアニメで「勝ち負け」を求めない「誰が勝ってもいいし俺も勝ちたいと思っていない」なんていうのはあるのでしょうか。

そして本作でも主人公たちはボンドルドに果敢に戦いを求め勝ち抜きます。

 

これは先日観た『メッセージ』の「ノンゼロサム」を引きずっていてどうしてもそれを考えずにはいられないのです。

「世界に平和を」「戦争はなくしたい」といいながら日本の子供向け作品はどうしても戦いから逃れられません。

最近は女子向けでもバトルを主題にしています。

勿論そのバトルは殺し合いではなく人生の中で戦い抜くことをイメージさせているのだ、と言えるのでしょう。

少女たちもバトルスーツを着て戦う、それは人生への戦いだと。

しかしなぜそこで「戦う」という言葉が出てくるのか?

なぜ「話し合い」ではなく「戦う」というイメージになるのか?

 

本作でもボンドルドと主人公たちの対決は「話し合い」ではなく「バトル」という形式で表現されます。

繰り返しになりますがそれは人生を戦い抜く、という比喩であるとしてもなぜに「肉体をつぶし合う」戦いになるのか?

 

本作はアニメーションなので言葉による懐柔ではなく絵として見せたいのだ、ということもあるでしょう。

しかしそれもまた最初から「バトルありき」発想からくるものに思えて仕方ありません。

では「バトル」ではなく面白い発想、面白い表現とはなんなのか、と問われれば今すぐには答えきれません。

しかしそれを考えていかねばならないのです。

 

映画『メッセージ』は確かにその一つの答えです。

リコ・レグ・ナナチがバトルではなく深淵の答えを探る方法、もしかしたら『メイドインアビス』には描かれているのでしょうか。

 

 

 

『死神とは?』 ミルクティー飲みたい

www.youtube.com

YouTubeDave Fromm Channel』で紹介されて知ったミルクティー飲みたいさんの動画です。

『死神とは?』というタイトルで話される内容がとても興味深いものでした。

まずは米津玄師『死神』をまだ知らなかったのでそこからもう惹きこまれてしまったのですがその説明の落語もまた知らず、で私は知ってるものはなにもないのか、という感じで参りました。

ミルクさんはすごく若い人なのに知識豊富で感心します。私ももっと研鑽せねばです。

そしてさらに『デスノート』に導かれ説明は『ファウスト』になっていきます。

ここらは詳しくなくとも少しわかると思っていたら話はゲーテではなく史実のヨハン・ファウストになっていきました。

戯曲では天に上るファウストが実際は実験中にバラバラに吹き飛んでしまったということから悪魔に支払う代償として最後の晩にいったい何が起きたのか、という恐怖に満ちた結末です。

これもまた知らなかったことです。マジでこの動画観てよかった、と改めて思いました。

ミルクさんは他のユーチューバーさんによくある演出過多ではなく落ち着いて淡々と話される人なのでとても波長が心地よいです。

しばらく観ていなかったので過去動画また観てみようと思います。

 

さて『死神とは?』

ミルクティー飲みたいさんは「それは時間です」という答えでした。

この答えは正しいと私も思います。

 

しかし先日観た映画『メッセージ』そして『インターステラー』のような世界になればその感覚もまた変わっていくのかもしれません。

 

そして『死神』のイメージでここに挙げられなかったものでいえばメーテルリンク『青い鳥』の最後の「未来の世界」に登場する恐ろしい神のイメージがあったのですがあれは死神というよりまさに「時間の神」だったような気もします。

もう一度『青い鳥』を読み直してみようと思います。

 

追記:とりいそぎ『青い鳥』の「未来の王国」だけ目を通してみました。

やはり「時間」でした。

まー彼は死神じゃなくてむしろ生神なのですがこれも時間が来れば「生まれたくなくても生まれなきゃいけない」という厳格なルールがあるのだ、というものなのです。

死にたくなくても現れて死を与える死神と生まれたくなくても生を与える生神は両方とも「時」というものなのです。

『アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール』マイケル・ラドフォード

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世の中知らないことが多すぎて今まで生きてきたのが不思議ですが今日また新しいことを知りました。

もちろん知ってる方のほうが多いのかも知れないのですがマジで知らなかったので自分に呆れています。

とにかく生きている間に知ったことに感謝するしかありませんね。

ということはやはり映画って大切なのだと改めて思ったり。

 

上の画像を見てもそれほど心を動かされたわけではなかったのです。

「盲目の歌手?奇跡?よくある感じ」としか思わなかったのですがレビューを読んで観なきゃいけないような気持が起きました。レビュー大切です。

 

盲目であり世界最高峰のテノール歌手である、と書かれています。なにしろ何も知らないのでただひたすら「どんな人なんだ?」という思いで観続けました。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

2017年公開の新しい映画ながら至ってオーソドックスな映画作りだったので落ち着いて観ることができました。

 

アンドレア・ボチェッリは1958年生まれで私よりほんの5歳年上なだけではありませんか。つまり生きてきた時代感覚もそう変わらないわけです。

生まれつき目の病気を抱えていた彼は12歳の時サッカーボールが当たった衝撃で悪化し失明してしまいます。

この時の彼のお母さんの嘆きが悲痛でした。

そして彼は生まれついて素晴らしい歌唱力を持っていてボーイソプラノで人々を魅了するのですが変声期を迎えた折「もう歌えない」と挫折してしまうのです。

 

ボチェッリの父はワイン製造をしているという説明があります。アモスアンドレアのこと)に馬を与えたり音楽室を作ってあげるなどのゆとりはありますが大金持ちでもない、という感じなのですね。

だからアモスはいろいろなバーでピアノを弾き歌を歌って生活をしていくのですがそんな中で再びオペラに惹かれていくのです。

友情や恋人の愛情、彼を教育したマエストロとの師弟愛が語られていきます。

エストロの教えは「沈黙が美しい声を育む」というものでした。

 

この歌の特訓場面は私が観るとどうしてもカンフーの修行と重ねてしまうのはいけないことでしょうか。

しかし道を究めていくのは音楽であれカンフーであれやはり師の厳しい教えと深い愛情そしてそれを受け止め鍛錬をする弟子の努力から生まれるものであるのは確かでしょう。

パヴァロッティ(さすがに彼は知ってます)と流行歌手ズッケロとの共演を持ちかけられ浮かれたものの一度その約束は反故にされてしまいます。

失意の中で彼は苦しみ最愛の人にも辛く当たってしまいますが数年後再びチャンスが訪れ今度こそアモスは華やかな歌のステージに上がることができたのでした。

 

ファンが押し寄せ次々とコンサートが続く鉄道の旅の途中でアモスは愛する妻に「ここで降りてしまおうか。何もかも捨ててこの町で暮らそうか」とささやくのです。

もちろん彼は歌い続けていくのですがこの言葉が彼の魂を表すようで心に残る場面でした。

 

下は師匠が弟子に気を送っている場面ですw

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いやほんとうに呼吸、タイミングを伝えているのでしょう。

素晴らしい場面です。

『かげきしょうじょ!!』第二幕

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おもしろいです。

思えば日本では高校生ものアニメって掃いて捨てるほどありますが同じ10代後半世代の各種学校ものというのはあまりないと言っていいのではないでしょうか。

実際には看護、服飾、競馬など(思いつく限り)そして本作のモデルである(でしょう)宝塚音楽学校のように歌劇団に入るための専門的な訓練を行う学校の物語作品がもっと増えても良いように思えるのですが。

日本のマンガアニメは「誰もが共感できる」ことがまず初めの条項としてあるのでどうしても誰もが行く誰もが行った経験のある「普通の高校」が舞台になってしまうのでしょう。

ならばどうしてバトル物が多いんだ?そんなにバトルしてんのか?という話になりますが、最初は普通の高校だったりしたりするのかもです(テキトー)

みんな同じ年齢同じ地域が基本の「普通の高校」とは違い各種学校になれば年齢も出身地も違ってくる各種学校はそれだけでも色々な学びがあるように思えます。

 

さてさてそんなこともあってアニメ『かげきしょうじょ!!』はいろいろ面白く拝見しています。

同時にマンガ本も並走しているのですがあまりネタバレしたくない気もしてちびちび読んでいます。

が、すでに一巻はじめからしてかなり内容が違います。原作既読者はどう思われているのでしょうか。とはいえアニメの設定と始め方もなかなか悪くないようにも思えます。

 

原作は元気な渡辺さらさが主人公ですがアニメで元アイドルで男嫌いの奈良田愛が導入部で突拍子もないさらさを「見る」位置づけとして存在するというのは私としてはとてもわかりやすくそれこそ共感できる設定でした。

 

第一幕はそうした説明を盛り込んでいて大変なボリュームでしたが第二幕はすっかり学校内の話となっていてある意味原作どおりになってもいて落ち着いてきました。

原作を観てしまうとどうしても絵柄が原作のほうがさすがに魅力あるのがわかってアニメ絵が平板に感じてしまいますがそれでもやはり頑張って描いてる感じです。

最後のキモオタくんが今後どのように物語に絡んでくるのかという不安も入交りマジで期待大のアニメになってきました。

 

 追記:とりあえず大急ぎ(というか遅いけど)で訂正を。

記事中に「が、すでに一巻はじめからしてかなり内容が違います。」という一文を書いていますがこれは間違いでした。

ツイッターで教えていただいたのですが。

 ということでした。

 ジョナ10.5Kさん、ありがとうございます。

原作をよく調べずに読み始めたので物語の流れを把握しておりませんでした。

 

 シーズンゼロをチラ見したら確かにアニメのとおりに始まっていました。

相変わらずこういうところを間違えてしまいます。

作者・斉木久美子さんも初めて知ったのでなにもかもよくわからない。

これは久しぶりに新鮮な体験です。

『京騒戯画』アニメ 松本理恵

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血界戦線』にあまりに感動したので引き続き松本理恵監督作品を観てみようと思いました。

変な言い方になってしまいますが小説・マンガでは日本の女性作家への評価は絶大ですが実写・アニメなどの映像監督に関して今まで意識して観たことは・・・・なかった気がします。

これは勿論無礼千万な言い方です。

実際にはずっと以前から女性監督は活躍しているのですが私自身が「意識していなかった」ということに過ぎません。

実を言うと日本の実写映画監督で良いなと思う方はいまのところいません。

しかしアニメ監督ならもう少し意識しているべきだったと今更ながら思っているところなのです。

 

今回再鑑賞したアニメ『血界戦線』が松本理恵氏という女性監督だったことを見つけて(私はどうもスタッフの確認をいつもしない癖があります)こういうことだから女性監督を見つけていないのだ、と改めて思いました。

実際女性アニメ監督について世間が話題にしなさすぎる、と勝手に世間に責任を擦り付けて反省しています。

 

さてさてアマプラで『京騒戯画』なるアニメを見つけまずは松本理恵監督作品で女性監督の実力を見届けさせてもらいます。

まだ見始めたばかりですがなかなかぶっ飛んでいて楽しいです。

しかしこれってニューヨークもといヘルサレムズロットを京都もとい鏡都に置き換えた血界戦線的な世界を和風にして主人公を女の子にした、という感じですねw

とはいえやはり日本が舞台なのはなかなか良いです。

あっさりした絵もかなり好きです。

これは…確かに観始めてよかったのでは。

 

『血界戦線』アニメED

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とにかく『血界戦線』のエンディングダンスが観たくてたまらなくなり再鑑賞してしまったのですが久しぶりに観てもやはりぐっとくるものがありました。

この良さをどう伝えたらよいのか、と思案したのですが素晴らしい考察を見つけたのでここに張り付けておきます。

 

www.ub-text.lsxilo.com

 

ここで書いてくださったことに激しく同意するしかないのですが本当その通りと納得でした。

たしかにアニメの技術は上がっていて他のアニメ作品で難しいダンスシーンも再現できているのでしょう。

プロの振付師によって振付られプロのダンサーが躍った動画を元にというかそのままアニメ化できることもあってキャラはどんなダンスもできるようになってしまいます。

しかし『血界戦線』EDはそういったプロのダンサーのダンスではなくど素人の酔っぱらいぐだぐだダンスだからこそ惹きつけられてしまうのです。(って書かれていたそのままですが)

血Eダンスは振付師には振り付けられません。もし注文するならマンガとアニメをすべて読んでそのキャラの特徴を理解してもらってからでしかできないわけでそれをしてもらうには破格なギャラを支払う必要がある上に「ど素人が躍る簡単でシンプルなあたりまえのダンス」でなければ題材にそぐわないのです。

血Eダンスを観ればキャラクターたちの性格がそのままダンスになって表現されています。わかりやすいのはザップの心底怠惰な投げやり性悪ダンス。クラウスの律儀な真面目で心優しいダンス。レオの精一杯の背伸びかっこつけダンス。K・Kの悪ノリダンス。

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レオの服が若干だぼだぼなのもレオの背伸び加減大きくなっていきたいと願っている彼の成長期を表しているのではないでしょうか。

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且つ背景がすでに幕が下りているところにスポットライトが当たっている、という演出も「エンディング」を意味していて何とも言えずかっこいいのです。

 

結局かっこよさ、というのはアニメーション技術ではなく(確かに必要ではあるのですが)演出のセンスなのです。そしてそれを生み出すには蓄積していく知識と経験が絶対必要なのです。

尚且つキャラクターへの愛情そして理解能力、いやはや大変です。

 

私がよく思うのは「アニメ界の人は物語よりもその世界を描くこと自体が好きなのだ」ということです。

もしかしたらアニメ作品本体よりオープニングやエンディングにこそその本領が発揮されるのではないのか。もしかしたらOPとEDを作りたいがためにアニメを作ってるのではないか、と。

そこはくだくだしい文字・台詞の説明ではない音と映像のみで表現できる世界だからです。

いわば「声優さん」の力なしで自分だけの力量を見せることができる、とも言えます。

 

もう少し言えば音楽とアニメーションだけで世界を創ってみたい、と思うのがアニメ界住人なのではなかろうか、ともにらんでいるのです。

 

血界戦線』は特にOPEDが素晴らしいのですが中身もかなりアニメ界の本領を試される内容だと思えます。いわばリアル世界と異世界を混ぜ込んでしまった場所が舞台であり登場人物もまたしかりだからです。

 

あと何回『血界戦線』アニメOPED再生してしまうのか、自分でもちょっと怖いですがこの麻薬を手放せそうにありません。