強く惹きこまれて読みました。同じ日本人である三島よりも彼を見ているストークスの考え方のほうに共感出来てしまいます。
ストークス氏は三島を見て日本人離れした特異性にぎょっとしその文学と知性を評価しながらもあまりの無軌道ぶりに驚き且つその魅力に惹きつけられ、しかし三島の自死に対しては強い反発を持つのですが、自分自身まったく同じ感覚でありますし今生きている日本人の多くは似たような感想なのではないでしょうか。
私の三島文学読書は「仮面の告白」「禁色」で終わっておりその美学方向性が自分の好みと逆であると感じてもうそれ以上別の著書を読む気になれなかったのですが三島のエピソードや思想を見聞きするたびに強い印象を与えられ続け、無視して通り過ぎてしまう気にはなれませんでした。
特に最近YouTubeで三島がかつての東大生と論議している動画を見てその魅力を感じましたし、美輪明宏氏や横尾忠則氏の三島の思い出話を聞くと面白くてたまらないのは結局自分は三島ファンだったのではないかとさえ思えてきます。
ストークス氏のこの本を読むとストークス氏が私と同じような感じ方をしていて、ほっとする思いでした。強い反発はそれだけなにかに共鳴していたためだったのです。
ただ一つ、ストークス氏と私の感覚の違いは「日本の伝統の中の神秘な一面、おそらく最も不可解なのは天皇制だろう。そして三島の行動の河を語る時「天皇」を避けて通るわけにはいかない」という文章にかかってくるでしょう。
私自身、天皇一家に特別な敬意を感じているのは確かです。三島の天皇への思いはもっと強烈であり彼の理想としての天皇の姿であったでしょうがストークス氏が憂国という見出しの「天皇制」という文章で表現している部分は間違っているとは言わないまでも微妙な違いを感じてしまうのです。
しかしストークス氏の書いたこの[5]行動の河 の「憂国」の文章は本著の中で最も読むべき箇所であると思います。
この文章を読んでいて思い出したのは夏目漱石の「こころ」です。
漱石の「こころ」は二人の男と一人の女の関係性を描いています。一見それは一人の女性を二人の男が取り合いをした物語と読めてしまいます。片方の男が女と婚約したことでもう一人の男が自死したために女と結婚した男はずっと良心の呵責にさいなまれていくという展開です。ですが、その男が当時の天皇の崩御に自決するという結末に謎を感じていました。
本著「三島由紀夫 死と真実」を読み、その謎が解けたように思います。
夏目漱石「こころ」は女性を介在していますが実は二人の男性のつながりを描いたもので、一人の男は女のためにもっとも大切な男を失ったという絶望のなかで生きています。自分で自分が何なのか、どうすればいいのかが判らないままだったのです。
天皇の崩御が報じられ天皇への敬愛とその男への敬愛は等しく同じものだったと男はその時初めて理解したのでしょう。
天皇の崩御への殉死はその男への殉死と等しいものだったのです。
友であり神である男の死に対して、そう仕向けた男の取るべき道は殉死だと漱石は書いたのです。現代に生きる私としては「友を死へ追い込むことではない道があったはずだ」と考えます。
ストークス氏は当時の「サンデー毎日」での三島の言葉を引用しています。
「~略~何故、天皇は人間であってはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとって神の存在でなければならないか。このことをわかりやすく説明すれば、結局《愛》の問題になるのです。~略~
愛し合う二人の他に、二人が共通に抱いている第三者(媒体)のイメージーいわば三角形の頂点がなければ、愛は永遠の懐疑に終わり、ローレンスのいう永遠の不可知論になってしまう。これはキリスト教の考え方でもあるが~略~天皇は我々日本人にとって絶対的な媒体だったんです」
ストークス氏は「ひそかに三島はときどき自分自身を神と、あるいは天皇と混同していたように思えてならない」とも書いています。
「つまり、盾の会ではAがBにつながる。Bが私につながる。そして私が天皇につながっていると考えるわけだ」と三島は語ったのでした。
賛同どころか奇異と私は感じているのですが、そう感じながらも三島に共感してしまっているのかもしれないとも思うのです。
剣道の叫び声を聞いて少年期の三島は強い嫌悪感を持っていたのに歳月を経て心から好きになった、と言います。
野卑で恥知らずの生理的な反理知的な叫びと感じたのを「自分の精神の奥底にある「日本」の叫び」と認めたのだと。
同じように私は三島について感じているようです。
それを認めるにはまだ強い反発もあり、認めたくもない気もするのですが。