ガエル記

散策

ジェンダーバイアスは続くよどこまでも

昨日の続き、というようにはならないかもしれませんが続けてふらふらと書いていきます。

日出処の天子」は作者・山岸凉子ジェンダーバイアスの強さから作られた優れた作品なのだと思っています。

厩戸皇子は明らかに高位の男性の地位を与えられたと設定しての優秀な女性として描かれています。

ではなぜ男性の振りをしている女性として描かなかったのか。本当は女性なのに皆が騙されて男性だと思っていた、というタイプのマンガもよくあります。

厩戸皇子は実は女性だった」という方向で描くことにすら、作者は強い女性性への嫌悪感を持っているのではないでしょうか。

女性性を求める男性性を嫌悪しながら男性性を求める女性性に対しても嫌悪感があるのです。

しかし女性として男性を好きになってしまうのは否めない。

そこで男性性を持つ女性としての厩戸皇子と女性性そのものである女性・刀自古が対照的に描かれていくことになります。

女性性そのもの、といっても刀自古は女性性に満足している女性ではなく常に女性性に苦しむ存在の女性です。

女性性に満足している女性、というのは男性にとって菩薩のような、と表現しても良いでしょうか、自分を受け入れてくれる女性、母性の強い女性、ということですが山岸凉子作品にはこのタイプの女性が少ないのですね。いつもなにかしらの不満がある女性として登場しています。男性から人気がある女性キャラは自分自身に満足し男性までも受け止めてくれるタイプに限るのです。

本作で最もそれに近い存在は額田部女王ですね。子供も幾人もいる年齢の女性ですから読者男性のアイドルにはなりにくいでしょうけど私自身彼女が出てくるときだけほっとします。山岸凉子はそのことを意識して描いていると思われます。結局毛人が好きになるのは布都姫ですが、彼女は女性性に疑問を感じてはいないのですね。石上の斎宮として生きることを覚悟し、毛人に心惹かれて結ばれたことに最上の喜びを感じる素直な心の持ち主で毛人がその姿に清らかさを感じるのも理解できます。

優秀な男性が好きになるのはこういう女性らしい女性よね、と作者は語るのです。

そして毛人は厩戸皇子の容姿の美しさに魅了され、その才能に感嘆しながらも女性性を持たないがために結ばれることを拒否します。ストレートの男性からは「当たり前だろ」と言われてしまうことに他なりませんが、ここに作者のからくりが仕込まれていることを忘れてはならないのですね。厩戸皇子は単なる男性ではなく「男性性も女性性も嫌悪する存在としての男性の姿をした人間」なのです。

厩戸皇子は自尊心を捨て妥協案まで出して毛人に伴侶となって欲しいと願いますが毛人は「普通の伴侶になることが本望」としてこれを拒否します。

そして厩戸皇子は最良の伴侶を得ることをあきらめ、これまでと変わらず淡々と仕事を続けていくのです。好きな男性と結ばれなかったので自殺する、というような女性性ではないのです。

優秀な女性が好きになった優秀な男性はごく普通の女性を好きであることを突き付けられ、仕方なく通常の仕事に戻る。

そんな物語でした。

 

日出処の天子」は優れた歴史マンガ作品だと思います。

しかし作者のこの強いジェンダーバイアスは読者にどう受け入れられるでしょうか。

が、そのジェンダーバイアスこそが作者にこの作品を描かせたエネルギーもしくは元凶です。

作者のジェンダーバイアスがここまできつくなければ登場人物たちはそこそこ楽しくそれぞれに交わり幸福になれたはずですが、それぞれの強い偏見がそれを許さなかったのです。

私は幾度もこの作品を読み返して、そのたびにイライラしたりむかむかしたりするのですがどうしても読むのを止められません。

それは自分の中のジェンダーバイアスの呪いを山岸作品を読むたびに刺激されてしまうからです。

この作品後も山岸凉子は様々な題材を用いては幾度も幾度もジェンダーバイアスの呪いを描き続けていきます。そのたびに苦しみます。

バレエマンガ「テレプシコーラ」は主人公の物語としてはほぼジェンダーバイアスを感じさせないものであったのに須藤空美という不細工な少女の受ける性暴力というエピソードを作者はねじ込んできました。あの話がなければもう少し別のメディアでもとりあげられるかもしれないのに、と嘆いても仕方ないのでしょう。

山岸作品はジェンダーバイアスそのものがテーマなのです。

 

そして今山岸凉子が描く「レベレーション」はジャンヌ・ダルクの物語です。

これこそは厩戸皇子を「優秀な女性が男性の姿と地位を借りた存在」としてしか描けなかった作者が真正面に優秀な女性を女性として描いたものになります。

男性性と女性性を嫌悪している女性であるのは変わりませんが、もう仕方ありません。

私は単行本にまとめられた4巻しか読んでいないので、その限りですが、ジャンヌ・ラ・ピュセル(ダルク)は毛人の代わりすら必要とはしていません。美形の男性アランソン公爵が本作では重要視されていないのです。安彦良和ジャンヌ・ダルクのほうではまだジャンヌとアランソンのつながりが強く描かれていたのですが。

厩戸皇子が仏になんの救いも求めていなかったのに対し、ジャンヌの救いは神だけ。

ここにも作者の変化が見える、というべきでしょうか。

女性が特に政治世界などで目立った活躍をすると日本でも「現代のジャンヌ・ダルク」と称されますが、その呼び方に少なからず冷笑が含まれているように感じます。

ジャンヌ・ダルクは女性が男装をして活躍したとして魔女とされ火あぶりという残酷な最期を迎えた人物です。その行為は「神の声を聞いたから」というきっかけからしても日本では胡散臭いもの、というイメージがあると言っていいのではないでしょうか。

ではなぜジャンヌが神の声を聞いたのか。

田舎に生まれ育った無学の一少女が「神の声」を聞いたことで男性の上に立って戦った、のはどうしてだったのか。

もし彼女が男ならば英雄だったのが何故魔女と呼ばれてしまうのか。

山岸凉子氏にはもっと作品を描き続けて欲しいと願っています。

彼女がジェンダーバイアスをテーマに描かなくても済む、時が来るのでしょうか。