ガエル記

散策

夏目漱石こそはケモ元祖~萌えの基盤を作った作家~

 

今頃になって思うのですが、「日本の作品(小説・マンガ・映画など)の基本は夏目漱石に尽きるのではないか」と。

 

というのは先日100分de名著の「夏目漱石スペシャル」なるものを見ていたら、今までドラマやマンガで見て来たよくある設定ってここから来てるんじゃ?と思うことしきりだったからなのですが。

番組自体が「夏目漱石を神格化しすぎずB級グルメのように味わおう」ということだったので当然の感想でありますが、そのくらい私たち日本人の作家たちは夏目漱石に影響を受けており、そしてその影響を受けた作家がまた真似をし、そのまた真似をし続けてきたように思えます。勿論作家だけが影響を受けても観客・読者が評価しなければ廃れますがまんまと観客読者も大喜びだったのでしょう。そのくらい夏目漱石の感性はそのまま日本人の大好きな感性であったのではないかと思うのです。

 

 

 

まずは「漱石スペシャル」で紹介していた「三四郎」から参りましょうか。

田舎から出てきた青年がひょんなことから美女と宿の同室になってしまい、美女から誘いをかけるようなことをされるのにもかかわらず、一晩何もできないままだった、というエピソード。

これと同じようなシチュエーションを何度マンガやドラマで観たことか。

「誘われるけどなにもできない」パターンは日本人大好きのツボなのですね。(日本人を繰り返してると今流行りのネトウヨみたいでちょっと剣呑ですが)男から誘うのではなく美女に誘われる。だがなにもできない、やせ我慢をする。というのが読者の心をくすぐるのでしょう。

エヴァンゲリオン」でシンジがアスカと同室で暮らす、というのも心地よいのですね。あれは誘われはしませんが。なにもしない、できない、というのがみそなのです。

「stray sheep」という意味深なキーワードを物語に織り交ぜる、という手法も好まれてよく使われます。

頭の良い美女・美少女が不思議さで主人公を惑わす、というのも読者・観客を惹きつけるのです。

 

夢十夜

夢とホラー、ちょっと怖い不思議な話。答えのない不安感。そういった感覚も好みだといます。

「道草」の「胃弱の不快感」を作品に絡ませながらおぞましい幼児期の記憶を思い起こす感覚。

「明暗」「まだ奥があるんです」というキーワードで登場人物が互いを探り合う、という手法。

アガサ・クリスティのように漱石の小説には物語の基盤ができてしまったようにさえ思います。

 

 

そして、この番組では紹介されてなかったのですが最も重要なのは漱石のデビュー作「吾輩は猫である」と私は考えます。

 

この、漱石の最初の小説にして最高に有名な作品「吾輩は猫である」はタイトル通り猫を擬人化したものですが、これなんか今頻繁に目にする「擬人化」そのものですね。
けもフレ」「チビ猫シリーズ」「BEASTARS」などの動物擬人化をあげていけばきりがなく他にも刀剣とか国とか県とか擬人化が面白い、という感覚は漱石の「我が猫」から脈々と受け継がれてきている日本人の萌え・ツボなのだと思います。
私自身漱石では「我が猫」が一番大好きで何度も読み返しては「ぎゃはぎゃは」笑って読んでるという変な人間ではあります。車屋の黒が愛おしい。
「我が猫」がなかったら「けもフレ」はなかった、というよりも日本人の好みの中心を漱石はぐっさり言い当てた、というか漱石自身大好きだったのでしょうね。

 

さらに腐女子として決して疎かにできないのが「こころ」です。

私としましても「我が猫」に次ぎ大切なのが「こころ」であります。

漱石の作品の中でも後期に書かれていることもあってか、なかなか構成も複雑で高度な技法が使われていますね。主な登場人物は書き手の青年、そして青年がいきなり「先生」と呼んで尊敬する年上の男性。その奥さんはなかなかの美人であるように思えます。「先生」は定まった職につくわけでもないのに、こじんまりとした住居をかまえ夫婦落ち着いた暮らしをしているという、この書き方にしろ、設定にしろイギリス文学の趣を持っていますね。

青年は先生の家に押し掛けるようにして奇妙な師弟関係を持ち続けていくのですが、ある時先生が毎月必ず一人きりで墓参りをしているのを知ります。

後半、その墓はかつて「先生」の親友だったことが判明するのです。

書き手の青年と「先生」の関係、若い頃の「先生」と死んでしまった親友Kの関係をしとやかだけど鋭い言葉を話せる女性を介在させて構築していくこの技法は今のBL界にも絶大な影響を与えている気がするのです。

勿論最初に書いたように皆が漱石を読んだのじゃなくかつて影響を受けた人が次に影響を与えて、という数珠つなぎができるほど漱石流は受け継がれていってるのだろうと考えます。

表面上は「先生」とKがが「奥さん」を取り合ってるように見えて実は「先生」とKが慕いあってたのだと後日気づき「先生」はKの後を追って死ぬ、という物語が「日本で一番売れている小説」であるというのもどんなに漱石の感性が日本人に受けてしまうか、という実証とも思えますし、大正の(作品内容としては明治の)BLが今もこんなに刺激的で深い内容として読ませてしまう、というのは凄いことではありませんか。

 

実を言うと、私は少ししか漱石を読んでいないので(「我が猫」「こころ」「ぼっちゃん」「夢十夜」くらい)全部読めばもっと「これもそうだし」となりそうです。

読んだ数少ない漱石作品中でも「ケモ」「BL」「エロシチュ定番」と日本人の萌えポイント炸裂必至を描いた夏目漱石は揺るぎない日本の文豪であると断言できますね。

全体的にあるがつがつ働かずにふらふら生きてるニートさも実際は社畜日本人の憧れなのかもしれません。

今更ながらではありますが夏目漱石こそが基盤なのだと思い知ったのでした。