ガエル記

散策

「書くことについて」スティーヴン・キング

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小説だけでなく文章を書いてみようと思う人なら読んで損はない一冊です。

キング独特の饒舌な語り口はここでも健在でとても楽しい本ですが、読んでから文章を書こうとしたら「おい、今読んだばかりの残念な文章を書いてやしないか」と怯えてしまう恐れはあるかもしれません。

 

思えば「文章の書き方」というような説明を今まで生きて来てどれほど学んだのか学んでないのか、自分でもよくわかりません。

それでもこうして文章を書いているのですからそれなりに自分のポリシーらしきものは出来上がってはいるはずですね。

私は大学で学んだ人間ではありませんから自己流で書いているわけですが、だからこそ余計にあまり難しい言葉は選ばないように、とは思っています。

当たり前ですがよく知りもしない単語をどこからか引っ張り出してきて使うのはちょっと恥ずかしいことになりそうです。

キングの小説が好まれるのは平易な文章でありながらとんでもなく面白いストーリーを書けるからでしょう。小難しい言葉は使わなくても才能が並外れていることは誰にもわかります。

 

この中でキングは「地獄への道は副詞で舗装されている」と表現しています。会話を説明する地の文で副詞を使うことは許せないとも言います。

「そこへおいて」と彼女は叫んだ。

「そこへおいて」と彼女は居丈高に叫んだ。

「そこへおいて」と彼女は凄んだ。

さてこの3つのうち、どれが良い文章でしょうか(最後の一文は私が勝手に内容を変えてますが)

たったこれだけの長さの文章にも良い悪いがあるということです。そんなこと言ってたら何も書けない、という声が聞こえてきそうだがそれは違う!とキングは言うのです。

 

(少し前に「ライトノベル作家リノリウムの床が好き」と書かれているのを見て吹き出しました。そういうことですね。しかもそれはウェブ作家に受け継がれているとのことです。)

 

キングの小説のわずかしか私は読んでいませんが、例えば「スタンド・バイ・ミー」の中でゴードンが仲間たちに自分の作った物語を話して聞かせおおいに受ける、というエピソードがあります。

皆からいじめられているでぶっ尻がパイの大食い競争に参加する話です。いじめられっ子でぶっ尻が大勢の観客を前に大量のパイを自分の胃袋に押し込んだ後、物凄い勢いでゲロをすることで復讐するのです。

この話はそれだけでは一つの作品としては小さすぎるでしょうが少年たちの物語の中で語られることで面白い意味合いを持つことになります。

スタンド・バイ・ミー」というそれほど長くない小説はキングの技術が巧みに作用していると思います。物語の中の物語、思い出の中の思い出、いくつもの入れ子細工となりながらゴードンとクリスやほかの仲間との友情、森の中で鹿と出会うことで彼が成長していくことを暗示する表現、そしてストーリーそのものが「死体探し」という人生そのものを暗示する意味を持つこと、エピソードの一つ一つが人生、生きること、死ぬこと、その意味を考えさせること、コインを投げる占いが最悪を意味してやり直すこと、優秀な兄と比べられ自分の価値がないこと、その兄が死んだこと、それでも両親は兄を愛していることなど。

 

 さて、スティーヴン・キングは「作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ」と言っています。

この言葉はなぜか人に受けないようですが、結局はそれしかないのでしょう。

「いや、こういう人もいる」と例外を探し出しても意味はない。あなたは(私は)その人ではないのですから。