今は亡きピアニスト中村紘子氏によるさまざまなピアニストについて語った「随筆」集と呼んでいいのでしょうか。
この中で私が特に興味を惹かれたのは日本における西洋音楽の開祖とも言うべき二人の女性音楽家のエピソードでした。
しかもそれぞれある種の衝撃を受けてしまうものなのでした。
まずは明治3年に生まれた幸田延。旧幕臣で代々文芸に秀でた家柄で兄があの幸田露伴であり他の兄も探検家であり妹はヴァイオリニストという華やかな一家の一員でした。
とはいえ日本中にスクエアピアノが十台もあろうかという、と中村氏は書かれているそんな時代でピアノの練習をする教則本もわずかしかないという状況で幸田延は15歳にしてもうそれ以上彼女を教える者はいなくなり「音楽取調所」を卒業し教師となってしまう。
しかしウィーンから招聘された音楽家ディートリヒから留学を勧められ幸田延は19歳で日本音楽界からの官費留学生第一号としてアメリカ・ボストンへ出航したのでした。
延はボストンからウィーンに移り、幸田家の誇りと日本の期待を一身に受けて懸命にピアノとヴァイオリンそして音楽の勉強をしヨーロッパの文化も学んで帰国したわけです。そして音楽学校の教授となり演奏会も開いたのでした。
彼女の教えた門下生には滝廉太郎がいます。
ここまではたゆまぬ努力もあってのことですが素晴らしい成功物語なのですが、この後のエピソードを読むと酷くがっくりしてしまいます。
幸田延は英語とドイツ語を流ちょうに話し外国婦人のように堂々とした物腰だったに違いない、と中村氏は綴ります。
そんな彼女は明治時代の日本人たちからは「メリケン帰りの生意気な女」とみなされ男女が身をつけ合ってピアノを弾いたり歌ったりオペラなどという胡散臭くエロチックな西洋芝居はなんだ、けしからん、という評価を受けてしまうことになり、弟子の不倫事件が起きてしまいます。嵐のような誹謗中傷の中で延は音楽学校を勇退し、39歳になった延は一年間ヨーロッパに戻り、再び帰国してからは音楽会とは関わるのをやめてしまうのです。良家の子女や宮内庁でのみ指導をしたのでした。
延が男性であれば初のクラシック作曲家としての名声も残ったでしょうし、教師としてももっと長く活躍できたでしょう。
欧米で勉強をして帰国した女性へのバッシングというのは惨いものだったようです。
日本初の作曲家としてもピアニストとしても音楽の教育者としても有名でないのが不思議です。
こう言った勉強をして活躍した女性は日本では特に独身であることが多いのはどうしてなのでしょうかね。