ガエル記

散策

久野久~「ピアニストという蛮族がいる」中村紘子

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そして本著で私が最も衝撃を受けたのがピアノスト・久野久についての一節です。昨日書いた音楽会で日本初の官費留学生として欧米で音楽を学んだ幸田延から師事を受けた女性です。

 

私はこの本を読むまで久野久という女性ピアニストについて全く知りませんでした。ネット検索をしてもwiki以外の記事はほとんどこの中村紘子著の本作かそれに関するものばかりなので手に入れやすい文献として久野久を詳しく書いているものは他にないのかもしれません。(YouTubeに彼女を扱ったものを見つけたので後で観ようと思います)

久野久滋賀県大津市の生まれで、幼い時に足を負傷しそのためピアノのペダルを踏むことも困難があったとされています。彼女自身は師と違い留学はしていないこともあって中村氏は久を初の純国産ピアニスト、と称しています。

幼少時、邦楽を学んではいたもののピアノを始めたのは15歳の時であり、中村氏はピアノの演奏を15歳から始めるというのはあまりにも無謀すぎることだと書き綴ります。

障害がありながらピアノ演奏に打ち込み、若くしてピアニストとして日本では有名な存在となり、その激しい演奏特にベートーベンを弾く久野久の姿は当時の日本人を感動させたというのです。それは鍵盤に打ち付ける指先から鮮血がほとばしりかんざしは飛び髪は乱れ帯はほどける、というすさまじさだったと描写されます。

後に久野久は日本の期待を背に受けヨーロッパに旅立ちます。それは本場の教授の師事を受けながら演奏会をしてまわりヨーロッパの音楽界を征服する、という野望を持ったものだったと言います。

しかし「本場の教授」の久への評価は「一からやり直せば4年後に《月光ソナタ》くらいは人前でひけるようになるでしょう」というものでした。

日本一のピアニストである久野久がウィーンでは「一からやり直せ」と言われたのです。

ヨーロッパじゅうで演奏会を開く予定をしていた彼女、日本人の期待を背負い持参した金もわずかになっていた彼女はもう進むべき道が見つからなかったのでしょうか。

投身自殺という最期を遂げます。38歳でした。

 

本著での中村氏の久野久に対しての批判は完膚なきまでに、と形容しなくてはいけないほどに強く感じられます。

最初読んだときはここまできつく描写することに驚きも感じましたが、読み返してみると「これは中村紘子さんの自分への警告もあったのではないのだろうか」とも思えてきました。

文章としてそういう表現があるわけではないのですが、中村紘子氏による、久野久の我を知らないまま突進する一途さの記述は残酷でありながら読まずにいられないものがあります。

ちょうど先日再鑑賞してから感想を書いた宮崎駿監督「風立ちぬ」の主人公・堀越二郎を思い出させます。

それは時期が明治以降、日本が西洋の文化を知り追い付き追い越せとわが身に鞭打って勉学し己の力を追求しながら何か根本的なものをまだ知り得なかった未熟さ無念さを感じてしまうからです。

日本という狭い国の中でのみありがたい存在とちやほやされる者が自分を公正に評価することは困難なものですね。

 

自己の力を妄信し奢った時、二郎は数え切れぬ他人の命を奪い久は自分の命を奪ってしまいました。

 

 

 

 

中村紘子さんが批判した久野久の特徴に「ハイフィンガー奏法」というのがあります。私はちょっとだけオルガンに触ったくらいでピアノはまったく演奏したことはありませんが、ずっとこのハイフィンガー奏法が正しいとどこかで覚えこんでいました。今ではどうか判りませんが本著が書かれた1990年代くらいまではまだこの奏法がまかり通ってそうです。ちなみにこの「ハイフィンガー奏法」は中村氏の命名だということです。

久の「激しく髪が乱れかんざしが飛ぶ」という演奏もピアノ演奏のイメージとして彼女を知らないにもかかわらずあったのは、どこからかそういう演奏が凄いという流れが息づいていたのでしょうか。

この本を読んで久野久を知らないのに彼女の持っていたピアノ演奏だけがイメージとして受け継がれているように感じてしまいました。

また久の教授法も「心をこめず指先だけで弾こうとするから間違える」と言って生徒の手をしたたかに打ち据えるという昔かたぎのものなのですが、こういう精神もいまだに日本で生き残っているように思えます。