とても不思議な小説です。よくある少女の願望の世界のようでいて他には決してないものなのです。
日本の小説と言うのは西洋のものに比べて貧相で物足りなく思うことが多いのですが森茉莉世界はそんな日本文学とはまったく異質であるように思えます。この独特で濃密に美しい世界を書いた作家は日本では他に宮沢賢治だけだと私は思っています。
たぶんありふれた日本の小説を読んでいる、特に男性的な人々は森茉莉世界をどう思うでしょうか。
類稀な美少女が裕福で立派な容姿の父親に溺愛されている様子を描写しているだけの小説というような。
牟礼モイラという聞きなれない響きの名前を持つ美しい少女は作者森茉莉その人の写し鏡でありますし、古武士然とした美丈夫という父親は森茉莉の父・森鴎外その人だという事は誰も疑わないでしょう。
森茉莉という女性は実際に父・鴎外から溺愛されて育ち裕福な名家に嫁ぎ離縁されたのですがその人生を彼女はこれ以上ないほどの美しい小説として書き記していきます。
しかしよく読むとそれだけではないのです。
モイラはお茶の水の高等師範学校付属小学校に入学しますが、そこにおいても他の子供たちと比べあまりにも特別に良すぎる服装やお弁当や持ち物とモイラのお嬢様ぶりから孤立しています。いわゆる取り巻きのようなものがいるわけでなく悪童たちからは囃し立てられもするのですがモイラは「あんたたちなんか」と軽蔑しきっているのがおかしいのです。もちろんそれはモイラが父親の権力や優越性を信じ切っているし、実際そうだからではありますが他人の目を気にしてばかりいる他の日本小説との違いが際立っています。
三島由紀夫はこの小説に「カナリヤと鸚鵡とアルマジロと針鼠の混血児。」という評を書いているのですがさすがというか単なる美だけでなく他からのみすぼらしい攻撃などはねつけてしまう硬さを感じるのです。
ぼんやりして走るのも鈍いモイラですが成績は優秀で特に国語は得意で書き取りの答案が早く終わって人形などを描いて教師に見つかる、というのが自分のことのようで共感しました。
高貴な美しさを自覚しているモイラは大勢の貧相な学友たちの中に一人の綺麗な少女を見つけ「この子は私と同じ子だ」と感じて友達になる、という描写も心地よい。ただし、このノエミという少女は後に貧しい人と結婚し不幸になりました、というセリフで片付けられてしまうというのも森茉莉世界の豪胆さです。
衆愚を見下した感のある貴族的な父親が可愛らしい愛娘の美貌を誇りさらに磨きをかけていく愛情の示し方は日本の物語では源氏物語くらいしかないのではないでしょうか。
現在の日本の父親であればそういう趣のある男性もいるかもしれません。学校が教えようとする道徳をつまらぬものとして娘に教え自分らしくあるだけでいいと教育する。
モイラのわがままも嘘をつく癖さえも愛らしいと感じて慈しむ、それは一般に常識とされる愛情とは違う。正座をさせ恥じらいを強制する躾に反発すら感じている牟礼林作という父親の感覚は従来の日本の美意識とはかけ離れているのです。日本では大事に育てられる娘のことを箱入り娘と言いますが、森茉莉の描くモイラの父親は愛娘を日本の狭い箱に閉じ込めてしまうやり方を嫌悪していて自由に育てたいと考えているのです。
正座を止めさせ綺麗な足になるよう足を横に投げ出して座らせ、裸になることを異常なほど恥じらうことを嫌い、娘に接吻して愛情を示す。
いつも身綺麗にさせ豪華な衣服や宝石を与えているだけではなく愛情を注ぎ見守っている。だからといって娘を閉じ込めて押さえつけることはしない。
モイラが避暑地で外国の美しい青年と肉体関係を持ったことを察知しても父親は心配はしながらもこれを止めたりはせず「うちに遊びに来ると良い」と言って彼の上に立つ余裕を見せる。
これは単なる少女の夢の世界、というだけでなくこうあるべき、ありたいという世界でもあるのです。
日本文学の中でこれ以上ないほどの耽美の世界、というだけの紹介にはしたくないのです。確かに優れた文体と上等な言葉選びに酔いしれてしまいます。
が、それ以上にモイラを取り巻く男たち(そして女たちも)の愛情の深さが今読むと改めて他にない大切な美しいもの、と感じるのです。
それは女性への愛が乏しい日本という社会のなかで奇跡のように感じてしまうのです。