ガエル記

散策

「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ

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昨日書きました「ジャンヌ・ダルクの生涯」現在#KuTooに寄せすぎて本著でのレビューにほとんどなっていなかったので今回は内容からもう少し突っ込みます。

藤本氏のジャンヌ探求は実際に存在したジャンヌを考えていく、ということでとても興味深いものでした。

ここで参考にamazonレビューと読書メーターというのを見たのですがこの二つでかなり本著への印象が違うのが面白かったです。

amazonは男性レビューが多いのか、藤本氏の「女性の目から見たジェンダー論」に対して反感を持つ人が多いのですが(そうではない方もいます)読書メーターでは女性の書き込みが多いようで本著にかなり高い共感が得られています。

男女だから必ずどうこう、と言うだけではありませんがしかしやはり男女の感想が違ってくるのは当然かもしれません。

史書(だけではありませんが)と言うのはこれまでほとんど男性が作ってきたわけです。どうしても男性から見た人物批評からできあがってきます。

特にジャンヌ・ダルクのような呼び名に「ラ・ピュセル=処女」とつくような美少女が若くして処刑された、という場合はより強い印象が良い方へも悪い方へも動かされてしまいます。

 

例えば同じく「ジャンヌ・ダルク」を題材にしたマンガで安彦良和「ジャンヌ」(原著・大谷暢順)でのジャンヌは彼女を主人公にしないことでより彼女をシンボリックに表現していきます。ジャンヌ以後の少女(エーミール)を主人公にしてジャンヌに憧れを抱かせる、という描写でジャンヌはここで特別な存在となります。「女性とは?」というジェンダー論はあまり描かれず「考えすぎるな。ただ一途に神を信じて平和のために戦え」という思いが少女を動かします。

 

一方山岸凉子描く「レベレーション」ではジャンヌの生い立ちから細やかに描いていきます。ここではジャンヌは農家生まれの一少女でありその彼女が何故神の声を聞いたのかが示唆されます。

山岸ジャンヌは明らかに「女性とはなにか?」という疑問から神の声を聞き行動をおこしていくという展開になっています。女性にとってはジェンダーを抜きにしてジャンヌは語れないのです。

ジャンヌが神の声を聞いた最初の場面が、父親から「結婚しない女なんか俺は家におかない」という言葉を聞き「女は結婚しか道がないのかしら」と疑問を抱いた直後に神を見、声を聞くのです。この時ジャンヌは子羊を抱っこしていることは彼女が「迷える子羊」であると暗示しています。

 

ジャンヌ・ダルクに興味を持つ男性の多くは彼女に他の女性とは違う聖性を感じ、女性たちは自分と同じ悩み持つ女性として感じてしまう。それは当然のことなのでしょう。

 

そしてジャンヌの抱く悩みは今の女性と何ら変わりなく思えてしまうのです。

 

藤本氏は本著でシャルル七世が聖別式を終えた後ジャンヌの功績に彼女を貴族に任命したことを「断るべきだった」としています。

「貴族になればもうジャンヌは神だけに仕えるのではなく国王の下の身分制度に組み込まれてしまう。ジャンヌは高位聖職者としての地位と待遇をもとめるべきであった」

なるほど素晴らしい考え、と思いますがまだまだ続く戦いがあるのに若きジャンヌがこの時点で賢く聖職者につくとは考えられない気がします。

山岸「レベレーション」ではこの場面はジャンヌは何の迷いもなく王からの賜りものを受け「正直今パンをこねる自分は考えられない」と描いています。

学問をしてきたわけではないジャンヌが聖職者につく、という選択は考え付かなかったのでは、と思います。藤本氏は「ここに私がいたらジャンヌを救えたのに」とまで嘆いていますが彼女が藤本氏の助言を受けたかどうか、受けたとは思えないのですよね。

これはやはり文筆家のような頭脳労働者の思考と思えます。とはいえ私もジャンヌを救う道はなかったのか、とは思います。

 

もう一つ、本著第四章「エクスタシィを感じるか」の項に興味を持ちました。いきなりエクスタシィが出て来てなんだろうかと思われたでしょうか。

これはジャンヌが神の声を聞く時に「恍惚の状態」にはいることを説明した、ということなのですね。

これをある研究家がこれを性的なニュアンスを読み取っている、というので藤本氏はまたもやここでジェンダー論を持ち出し「ジャンヌが顔を赤らめて告白したからといってすぐに性的なものと考えるのは勘繰りすぎだ」ということで説明を終えています。

しかし私としては「エクスタシー」=「恍惚」=「脱魂」という言葉を目にしてもう少し考えてみたいと思いました。

 

時間が来ました。

 

 

to be continued