ガエル記

散策

「長閑の庭」と「たそがれは逢魔の時間」

machidatimes.jugem.jp

またまた「マチダタイムス」さんのブログに触発されてしまいます。このドラマの番宣を見ただけでドラマ自体を観てない状態なのですけどね。

 

マチダさんはこのドラマについて老人男性と若い女性との恋愛と性愛について深く思考されているのですが私はドラマ予告で女性学生の異常性という妄想しかできませんでした。

マチダ氏はその辺もしっかり林葉直子氏の話を用いて言及されています、さすが。

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観ていないのに言うのは危険ですが老教授と女子大生の恋物語、という設定はどうしても女子学生の方が積極的で老教授はそれを「いけないよ」とやんわり留めるがしかし、という形になりがちです。それは老教授のほうが攻撃的だとどうしたってただの変態エロジジイ物語になってしまうからですが、女子学生が積極的であってもやはり異常に思えてはしまう。私としてはどうしても過剰な妄想をしてしまった女性の暴走という絵面しか湧いてこないのです。

それを美貌の若き女優が演じる時、現実にあるはずの異常性をどう処理されるかが映像としての見どころになると思うのですが、予告での彼女があまりにも「まとも」であるがためにドラマを観たいと思う気持ちは起きませんでした。

 

とはいえ、現実にこのような年の差カップルがあり得ないと言っているのではなく、存在することに意義を唱えるつもりはありません。

私自身がごく当たり前の男女が恋愛して結婚、というドラマの予告を観ても絶対に観ないことと同義なだけです。

ドラマとして観たいのはそうした中に潜む犯罪や異常性というのが自分の好みなのです。しかし考えるにこうした嗜好というのは老若男女の性愛を考える、という思考においては弱点なのかもしれません。

 

検索して原作が女性マンガと気づき一巻が無料で読めるということで今少し目を通してきました。

なるほど女性マンガとなるとより女主人公の心理がわかりやすくなりますが教授の描き方が(当たり前ですが)女性マンガらしい雰囲気を醸し出していました。

 

そしてここで思い出すのは「たそがれは逢魔の時間」という大島弓子のマンガ作品です。

こちらの方は老教授ではなく50代のサラリーマンと女子中学生、という設定です。

これらの作品の比較をしても詮無いこととは思いながら比較してしまいます。

 

「たそがれは逢魔の時間」では先に言った中年男性からの視点になっています。当然大島氏は中年男性の少女への性的欲望を描いています。

しかも少女は売春を目的として男に近づいたという設定です。

中高年の男女と少女、大島氏はそれぞれの人物を少女マンガという枠内で描き切っていると思います。

当時どなただったか忘れましたが男性二人がこの作品について語られていて「素晴らしいが現実の男はもっと狡猾だと思う」と言われていました。確かにそうでしょうがその部分が少女マンガの枠内、なのではあります。

「長閑の庭」ドラマは観ずに漫画は一巻だけでの評ですが作品として惹かれるのはどうしても「たそがれは逢魔の時間」のサスペンスと恐怖です。

 

しかして冒頭であげたマチダタイムスさんの評はあくまでも「老人男性と若い女性の性愛について」からの「長閑の庭」ですからそれ(老人と若い女性の愛)を「たそがれ」で語るわけにはいかないですね。まだ両方とも若すぎる。

 

だらだらとまとまりのない文章になってしまいました。

「長閑の庭」で反感を持っていた時に「マチダタイムス」さんがまさかのレビューを書かれていたのでついつい書き立ててしまいました。

ドラマは多数の男女スタッフから成立するものですが、マンガは一人の妄想の身で成り立っています。

老教授のキャラ設定が繰り返しですがどうしてもいかにも女性マンガで自分としては人間としてイメージしづらいのです。

正直言うとどのキャラも共感しづらかったのですが。

「たそがれ」は3人のキャラ度の人も「嫌な感じ」なのです。

そこが違うのではないでしょうか。