ガエル記

散策

「昭和女」とはなんだろう?

昨日書いた大槻ケンヂインタビューに関する記事、書いた後ますます気になってしまったのでした。

「昭和男」は「モテる」が理想だった。金持ちになってかっこいい車を乗り回して「綺麗な女」を人がうらやむほどたくさん手に入れる。どうせ結婚相手は一人だけど結婚前も結婚後も浮気しまくることが男のステイタスだった。

そして今「モテる」に幸福がなかったことを知った。これはよく言われていることでもあると思います。

では

「昭和女」は何が目的だったんだろう。

それは「昭和男」を逆にすればそのまま「昭和女」の目的になるわけじゃない。

「かっこいい男」を多数手に入れた女が人から羨まれるということはなかった。

もちろん良い車をブランドバッグに置き換えてイコールになるほど皆がブランドバッグに固執(男が車をステイタスにしたほどには)してはいない。

「昭和女」の理想は「我慢する」だったのではないかと思う。

 

なんだそれ、しょうもない、と言われるかもしれないけど、私はそう思ってしまう。

「モテる」(金を持てる、車を持てる、女にモテる)を理想としてなりふり構わずやっていた男たちを野放しにして女たちは「我慢する」を理想像としたのではないんだろうか。

「モテる」男を支えるため女は「我慢する」を理想とすることが自分たちのとるべき正しい方法だと信じていた。

もちろんそれは男たちからの要請でもあり強要でもあったのだけど、それに反発し「男は間違っている」という道はあったのだ。

でも「昭和女」たちはその道を選ばなかった。

何のためだったんだろう?

男のエゴイズムに対して喚き散らす醜さより文句ひとつ言わず耐える姿を美しいとした。

 

しかしそれは本当に美しかったんだろうか?

 

昨日「我慢」という言葉を検索して初めて認識した意味。

 

 1.
辛い事を耐え忍ぶこと。「飲みたい酒を―する」「殴り倒されて―にも立ち上がれなかった」。こらえて許すこと。
 「この失態も今度だけは―しよう」
2.
仏教
自分を偉いと立てる(わがままな)慢心。
 「―の角が折れる」

 

もちろん現在「我慢」の意味は一般的には1であることがほとんどで2の意味で使用したら誰にも伝わらないだろう。

 

でも本当は1の意味の「我慢」をしている状態こそが2の意味の「自分を偉い」と思っていることだったように思えてならない。

というのは女性の心理で男(夫)が浮気をした時に「自分が完璧に家事をこなすことで夫を見下してやろう」というものがよくあるからだ。

この心理は日本女性特有のものなのか、今ではもう存在しないものなのかはわからない。

ただこの考え方はあまりにも奇妙ではないだろうか。

「夫の浮気を不満に思う」のは当然だろう。しかしそこで「浮気したことの不満を夫に伝えやめさせる」のではなく何も言わず我慢して「完璧に家事をして相手を見下す」という行動は私には理不尽としか思えない。

論理の方向が全く違うのだから成立するはずがないのだ。

でも「昭和女」はその考え方で生きていった。

この考え方は会社などにも当てはまる。

「男性社員(上司でも同僚でも)からセクハラ行為を受けた」時にそのこと自体に不満を言うのではなく「女だから甘く見られている」➙「ここで泣いたりわめいたりすとますますなめられる」➙「何も言えないくらい働いて業績を上げることで相手を見下す」

という道を選んできたのではないだろうか。

無論同時代に生きてきた同じ女性としてそうしなければならなかったのだ、というのはわかる。わかるけれど女性が女性だからという理由で強いられたセクハラやパワハラに対して「我慢する」ことをあまりにもしてきたことは今現在の若い女性たちを苦しめる要因になってしまったのではないんだろうか。

 

「昭和女」は「我慢する女」でした。それは良いことではない。美点ではない。「我慢する」は文字通り「耐える私は偉いと慢心する」ことで問題を誤魔化してきたにすぎなかった。

身勝手な「モテる」を求める男たちに渋面を作って怒ることは醜いと楚々とした振る舞いにこそ美があるという身勝手な考えで「昭和女」たちは未来の女たちを苦しめてしまった。

「昭和女」たちが行うべきは「黙って耐える」ことではなく男たちに向かって思い切り大口を開けて怒鳴り散らすことだった。

 

「私はこうしたい」「あなたは間違っている」というべきだった。

 

今でも「昭和の女性」「古風な美徳」などという言葉をありがたがって賛辞しているひとがいるけど、その考え方が歪んでいることを気づかなければいけないのだ。

 

仕方ない。

どうしようもないほどの大きな戦争の後、日本人のとった道はそういうものだったのだ。

でもこれからは違う。違わなければならない。

「モテる」を理想とすることも「我慢する」を理想とすることも間違いだった。

今もなおそういう理想を持ち続ける人もいて考え方を変えていくのは大変なことでもある。

でも少しでも良くしていこうと思う気持ちがあれば少しずつ世界は変わっていけるんじゃないか。

 

本当の幸せ、というものがなんなのか考えながら生きていきたいと思う。