広田弘毅を読んで考えて三日目になりました。半藤一利・加藤陽子対談著「昭和史裁判」の【第一章・広田弘毅】から触発されたのでした。
裁判形式で語られているこの本では半藤一利氏がいわば検察官となって広田の罪を講じ加藤氏がその釈明をする、となっていますが正直この本で広田弘毅の言動を初めて知った私は「こんなにブザマな人だったのか」という驚きしかなく加藤氏の反論というものはほぼなかったために地元の広田礼賛文を読んでも「身内は良いように書き換えてしまうね」とさらに幻滅してしまいました。
しかし幾つかの文献を見ていると半藤氏の広田評は事実として間違いはないのかもしれませんがそれだけでは人物の判断と言うのはできないのかも、と思い始めました。
加藤氏が広田を弁護したいというのならここを追求していくべきだったのかもしれませんがかなりの年齢差のある半藤氏に盾突くことが躊躇われてしまったのかもしれません。それは裁判形式対談本としては失敗ではないかと考えるようになりました。
プロフィールを見てみると半藤一利氏は藩士の出身となっています。昭和初期の頃までの方は出身が藩士・農家・商家というような記述がありますね。
政治家や文化人は藩士出身がやはり多いように思えます。次には医者やゆとりのある商家などもあるでしょう。
貧しい家に生まれて努力で立身出世をする美談などはもてはやされますが、やはり希少でしょうし貧しくとも元は藩士であった、というような血筋の貴種を強調する場合もあります。
そんな中で広田弘毅はまったくの平民であり父親は元は農家の出ともあります。縁故にも名門出身はいなかったとあります。
昭和天皇から「名門を崩さぬよう」と釘を刺され「私は50年早く生まれてしまった」と広田は言ったそうですが、これほど人の尊厳を踏みにじる言葉があるでしょうか。
私はこの逸話で昭和天皇をはじめこの頃の人々の考え方が伝わってくるように思えます。
しかしやはり人間の思想・言動というのは幼少期からの教育にあると思ってもいます。
小説「落日燃ゆ」で総理大臣になった広田弘毅の父親が「人間は飯を食わせておけば大きくなる」という話は微笑ましいようでひとつの陰りも感じてしまいます。
学校の勉強というものは努力して学べば、そして優等生であれば広田のような境遇でも上に行ける機会があるでしょう。
地元に玄洋社があり一社員から支援金を受けた広田が帝大に合格しやがては外交官となり政治家となっていく。そういった努力すれば昇進できる、ことと人格の高まりはまた別の話です。
「名門の出ではない」ということは人脈がないことであり、人を脅かす鎧がないことであります。与えられる教育や助言が少なく自分自身で考え導いていかねばなりません。
それは言い訳だ、事実がすべてだ。
そのとおりです。
広田の歴史を見ていると総理大臣になるまでは立派な人なのですがそれ以降の彼には何の権限も力もなくなったかのようです。
「軍部のいいなりになっている」のが広田弘毅の姿でした。
何故広田はその地位にいたのでしょうか。
226事件直後の総理大臣となり外務大臣に吉田茂を置きたかったのに自分が兼任する羽目になったのは何故なのか。
この時、吉田茂が外務大臣になっていたら後の吉田総理はいなかったのか。
歴史というものはほんとうに考えさせられますが、それは人間が起こしていっているものなのです。
真面目で努力の人だった平民・広田弘毅はお偉い人達にその時代にその地位に立たされた。彼は孤立無援だった。
それが弁護のすべてだと思ってしまいます。
「自らかえりみて縮(なお)くんば、千万人と雖も、われ往かん」
半藤氏はこれを広田に置き換えて「日本が正しいと信ずることは諸外国が批判しようともやる」と言っていますが、むしろ日本国内での意味と感じてしまいます。
彼の人生はもう一度見直されてもいいのではないでしょうか。