ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その1

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引き続き旧「どろろ」を観つつ切り替えて新「どろろ」も追いかけて観る事にしました。

ちょぼちょぼと思ったことを書きしるすだけにはなりますが、どうしてもやりたくなってしまったのでしょうがありません。

 

作品を比較して観ていくと様々な違いがあって書き出しているときりがないのですが、新演出が何故こうなったのか、と思ってしまうとどうしてもコメントをくださったhuhuさんの解釈方法が思い出されてしまい「これはなにか意味があるに違いない(でもわかってない私)」というのが繰り返されておかしいです。こういうのは何かの時にはっと判ったりするのが面白いのでその時を楽しみにすることにします。

 

旧「どろろ」3・4話「万代の巻」は富野由悠季氏が富野喜幸の名で演出しています。この話は「どろろ」の中で初めて、というわけではないですが百鬼丸どろろが共に旅を始めて最初の「化け物退治」になるので印象深いのですが、特に「どろろ」は鈴を鳴らしながら「やろ~か~」と言って出てくる「不思議なもの」が面白いのです。

ここ、マンガと旧「どろろ」はでは横になって眠っている百鬼丸の耳元で何かを囁く、という演出になっていましてそれが凄く怖くて大好きな場面だったのですが新「どろろ」では最初から「やろ~か~」と出てくるのでちょっとあっけにとられてしまいました。

しかしこれもまた新の演出なので「旧の演出がよかったのにい」と言っているだけではもったいない新の面白さが見えてこなくなります。

新ではここで百鬼丸と琵琶丸が目が見えないのに人や妖怪を「気の色」で見分けるという説明があり、万代の世話をしていた村人自体がその悪行に加担していたと改変されています。

 

そして新旧で最も違うと最初に観た時驚いた「何も話せず見えず聞こえてもいないような百鬼丸」という演出です。

マンガ・旧で超能力と腹話術で会話ができるという設定がこの改変で百鬼丸をまったく違うキャラクターにしてしまいました。

ビジュアル的に昔の百鬼丸が大好きだった私ですがこのキャラ設定には参りました。

最初「百鬼丸が今風細身美少年になっちまったよ」と嘆いていたのですが内容はそれだけではないものがあったのです。

 さてどうして新どろろ百鬼丸を完成されていない状態として描いたのでしょうか。見えず聞こえず話せずの百鬼丸に名前を教える時、どろろ百鬼丸の手を取って自分の頬にあて、同じように自分の手を百鬼丸の頬にあてるのですが百鬼丸はその意味が解らないようで答えられません。この様子で思い出すのはヘレン・ケラーサリヴァン先生の動作ですね。してみるとどろろサリヴァン先生といったところでしょうか。

 

寿海が百鬼丸を拾った時目鼻もなく皮膚さえない赤ん坊を見て「生きたいのか」とつぶやく。手塚マンガ、特に「ブラックジャック」でよく使われるテーマですね。

このの新の寿海とマンガ・旧の医師・寿行はかなり違うイメージです。達観した感のある昔の寿行と比べ寿海は苦しみ抜いている男です。新ではだれもが悩み苦しんでいるのですね。

でも寿行にしろ寿海にしろ百鬼丸を拾って育てていた何年かとても幸せだったように思えます。それも不思議なことではあります。百鬼丸のような大変な子供を育てている時期が一番幸せそうに思えるのですから。

 

さて今日はここまで。またゆったり続けますよ。