ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その2

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どろろ」マンガもほんとうに面白くてついつい読んでしまうのですが手も足も目鼻もない百鬼丸の赤ん坊時代がどういうものか可愛くてたまらないように描いてあるのですよね。これはもう手塚氏の感性なのでしょうけど、かわいそうというより可愛いという感覚で医師・寿行が世話をしたのじゃないかと思ってしまいます。

マンガではふたりがテレパシーで会話ができるのですが「おまえ、わしが好きかね」という問いかけにベビー百鬼丸が「うん大好きパパ」という手塚ギャグが愛おしい。

医師が懸命に義足や義手を作るさまを見守る百鬼丸も可愛いのです。

そしてそのパパの家を出る少年になった百鬼丸の一枚絵があるのですが、百鬼丸の小さな後ろ姿の横に大きな樹木が描かれていてこれが凄くかっこいいイラストになっているのですが萩尾望都の絵にも似たような構図があってはっとしてしまいました。

まったく同じ絵ではないのですがというか絵としてはまったくちがうのですが「銀の三角」第一部の最後のページです。なんと印象的な場面か、と思っていたのですが百鬼丸の門出と同じような魅力を感じました。

 

どろろ」作品の中で一番記憶に残るだろうと思われるのは戦争で親兄弟、住む家ばかりか自分の体のあちこちまで奪われてしまった子供たちだけで住む寺の話でしょう。ここで百鬼丸が「みお」という少女に出会って初めて恋(のような気持ち)を知る、ということでも忘れられないものになります。

これは物語の初期で語られるのですがマンガ・旧ではまだ百鬼丸どろろと出会う前の話をどろろに語り聞かせるという設定になっていますが新では百鬼丸が「話せない」という設定になっているため、百鬼丸どろろ、そして琵琶丸も一緒にみおと大勢の孤児たちに出会うという話に改変されています。

 

この「みお」という少女は大勢の孤児たちを養うために雑兵たち相手に売春をして食べ物などを得ているという怖ろしく悲しい事実があります。

1969年版アニメではさすがに「孤児たちのお母さん替わりをしている娘」とだけ説明されていますが、実は原作マンガで手塚治虫氏は百鬼丸がテレパシーで「おれはみおが好きだ」と告白させ、みおの心が「わたしはいやらしい女の子よ。雑兵の陣屋へ行ってたべものをもらうの」と話させています。これに百鬼丸は「それがなんだ」と答えるのですがみおは「あなたはなにも知らないんだわ・・・」と答えるのです。

これに続くマンガは雑兵たちに物を投げられ笑いものになる、という表現ですがみおの話し方で手塚氏は彼女が売春をしていたことを示唆しています。

 

新ではこうした百鬼丸とみおの言葉のやりとりはありませんが聴覚を取り戻していた百鬼丸が現実の「音」に怯え耳をふさいでしまうのに、みおの歌声だけは心地よく聞こえる、という表現で二人の心の交流が特別なことを表していきます。

そしてここで百鬼丸こそが鬼神となってしまう恐れがあることが示されます。

みおと孤児たちがもう少しで幸福になれるかもしれない、という希望を感じて間もなく唐突にみおたちは雑兵たちに無惨に殺されてしまう。初めて安らぎのような感覚を知った百鬼丸はそれを失ったことに逆上し琵琶丸が怖れたとおり鬼神の様を表してしまうのです。

みおが大切に持っていたもみ殻は子供たちの夢でした。

そしてマンガでは百鬼丸どろろに「みおはおれに人間の心をふきこんでくれた。そのみおが死んでおれの心は死んでしまった」と話すのです。「剣を覚え常人と同じようにふるまえるにようになった。だがそれがなんになるんだ」「俺という人間はまるで枯れ木のようにガランとして死人も同じなんだ」「だからいつも死神につきまとわれるんだ」

ぞくぞくする百鬼丸の心の表現なのです。

しつこいですが私がマンガでグィドという人狼を描く時もこのようなイメージがありました。しかし前に書いたようにそれが「どろろ」だということをすっかり忘れていたので私はこのイメージをブロンテの「嵐が丘」のヒースクリフだと思い込んでいたのです。

ヒースクリフもまた愛するキャサリンを失って同じような気持ちで生きている男なのです。こうした愛するものを失った男、というイメージは私にとって至上のようです。(マッドマックスしかり)

とんでもない悪趣味だとは思いますが。

 

みおという母のイメージの女性は死んだのですが、その手にはもみ殻が残っていたことは「どろろ」の物語の未来を感じさせます。