ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その4

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父としての権威が軽くなった醍醐

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ばりばりに家父長の権威の醍醐

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うん 大好きパパ



そして次に物語のポイントとなる「ばんもんの巻」

アニメ旧版では3回、新版では2回に渡って描かれます。新版はひとつ少ないですがその代わりに「多宝丸の巻」という回が一つ前に入るのですね。

新版では多宝丸が細かく描かれています。百鬼丸の弟なのですからその改変は悪いことではありません。昔の物語は主人公だけに焦点を当てるものだったのが今は脇役にも物語があることを表すようになってきました。場合によってはテーマが分散したり内容が薄まったりしてしまう恐れもありますが、「どろろ」アニメ新版は全体を考慮して変えていった計算が感じられるので多宝丸に二人の側近が新しく加えられるという改変も面白いと思いました。しかも二人は一見男兄弟のようでいて一人は姉つまり女性であるという設定になっています。ここでも「女性であるが男性のようにふるまっている者」という細工が施されています。しかも強靭で弟を教育し主人である多宝丸への忠誠心は女性特有の愛情ではなくあくまでも家来としての忠義だと見せています。

 

「ばんもんの巻」を観ているとアニメ旧版・マンガとアニメ新版の時代からくる感覚の違いを感じさせます。

どろろ」の悲劇は醍醐景光による家父長制度の権力の偉大さから引き出されたというだけのものなのです。

そして昔の作品はマンガでもアニメでもそのことがはっきり描かれています。昔の醍醐は鬼神たちに「わしは天下をとりたい!わしに力を貸してくれればどんな礼でもする!」と願って我が子の体を差し出すわけです。

しかし現代版は「我が領地が豊かに暮らせるためなら」と百鬼丸の体を犠牲にするのですね。

いかにも身勝手、横暴な昭和(ではないが)の父親と比べ平成・令和の父親は願い事もみみっちくなっています。

しかも昔版は母親縫の方は夫からも息子からも叱られ何もできないのに新版はなにもできなかった自分自身を叱咤し、行動を始め夫と他大勢の前で反抗的にも百鬼丸に語りかけるわけです。

ちなみに家父長制というのは強い男であること=権威と財力が絶対ですが悲しいことにどろろの父親はそれを失ったとたんに弱ってしまいます。これは昔版も新版も同じでそのために母親がどろろを守る羽目になるわけですが、その強さは旧新変わらず描かれています。

母親は旧新どちらも同じように愛情深くしかも百鬼丸の母親は以前になかった活躍を始め、父親の権威は絶対的なものではなくなったのです。

 

新版で百鬼丸が自分を育ててくれた寿海に昔のように「パパ大好き」ではなく「おっかちゃん」と言って寿海を泣かせたのもそんな時代の変化なのかもしれません。

 

かつて家父長制の父親の権力は絶対なのでありました。

それは手塚マンガで幾度も描かれてきたものですが例えば「奇子」の中で描かれるおぞましさは「どろろ」の百鬼丸で描かれていると思います。権力を手に入るためなら我が子が父親のためにその体を鬼神に捧げるのは子として当然の親孝行だという意識でしかなく、もうひとりの息子・多宝丸へも父親である自分に従うからこその愛情であるわけです。

マンガで多宝丸と百鬼丸が戦っていると聞いて「血を分けた兄弟だ。やめさせろ」と慌てふためくのに多宝丸が殺されたと知って今度は「百鬼丸を殺せ」というのもこういった家父長制度に基づく感覚がきちんと働いているわけですね。

 

新版ではここで多宝丸が殺されることはなく続きます。それは後に母親縫の方の活躍があるための改変ですし、昔版でここで多宝丸が殺されてしまうのは家父長制の強さゆえ後継者を殺された醍醐が百鬼丸への憎悪を増すことになり父親から再び殺されそうになるという百鬼丸の悲劇を深めていくことになるのです。

この家父長制からの悲劇を新版で描かなかったのはここまで強い家父長制の威力を現代の若者が共感しにくい、と作り手が考えたのか、それとも作り手自身が家父長制に対する反感が強かったからなのでしょうか。

その代替として母親そして女性へ共感し活躍させているのかもしれません。

新版では醍醐景光の権力は家父長としての絶対的なものではなくなります。「天下を取りたい」という男の野望ではなくなるのです。

そして我が国の平安を守るからこそという条件付きのものになります。そのためにここで百鬼丸が犠牲になる、ということに「それなら仕方ないかも」と考えてしまった人はいなかったのでしょうか。これも昔はよくある考え方だったはずです。お国のためなら玉砕するが本望、というやつですね。

 

しかし物語は「いや、国のために誰かが犠牲になるというのはおかしい。自分たちの力で国を立て直すことこそが本当の国の繁栄なのだ」というまさに今時の考え方に変更されていきます。これはもう実を言うと「どろろ」の本来の恐ろしさを失ってしまっているのかもしれません。

どろろ」はその怖ろしい物語を見てどう考えるのか、という意味合いを持っていたはずですが、新版では作品の中に答えを表してしまいます。これも今の表現だと思われます。

怖ろしい作品を描くだけで観客に考えて欲しい、というのは今の人には受け入れにくいもので、「ちゃんと答えを言ってよ」という気持ちが強いように思うからです。

新「どろろ」はそこをきちんと描いた作品になっています。そういう作品はまれだとも思うのですが。

 

ところで、現代でも家父長制は働いているとは思いますが反感は以前よりはるかに強くなっていると感じます。

現実の話、女性への性犯罪が以前はある意味「仕方ないもの」として諦めていたことが「絶対許せない」と変化していることが家父長制=男性権力を破壊したいという表れだと思います。歯がゆいほど遅すぎる変化だとは思っていますが。

どろろ」という昭和のマンガ・アニメ作品を平成・令和で作り直す、ということだけでもこれほどの改革が必要だったのは注目していいのではないでしょうか。

そしてそういった部分を改革せずにリメイクしたものは受け入れられない作品になっている、と思うのです。