ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その10

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どろろ」マンガについてまだ少し。

ヒロインの少女がこれほど可愛くない、いや可愛いのだけどロリータと言える年齢の少女としての可憐さではない。

しかも百鬼丸から「はっきりいっておまえのくさいのくさくないの、何か月からだを洗わないんだ?」と言われて「へへへのへ、4年だい」と答える少女であります。

新版ではさすがにこれは強烈すぎるとみなされむしろ百鬼丸どろろの髪をにおいをかぐ、という場面がありました。私は「うわー大丈夫か?」と思いましたが、現代のどろろは清潔なようでしたね。

 

そしてこれはhuhuさんからも指摘がありましたが、原作マンガでは子供があっけなく殺されてしまう場面がいくつもあります。矢が刺さっているのがそのまま描かれてしまうのはあまりにも惨たらしい。現在でそのような場面にタブーがあるかどうかよくわかりませんが(インパクトの瞬間は描かないとも聞きましたが)戦争を体験した手塚治虫としては「子供に矢が刺さるのは残酷」というタブーはちゃんちゃらおかしいのかもしれません。戦争時に子供だけは死なない、なんて配慮はないわけです。むしろ小さく弱い者から死ぬわけです。

どろろ自体この年齢の子供が(男だろうと女だろうと)殴る蹴る吊り下げると酷い目にあってばかりです。新版ではさすがに昔ほど痛めつけられる場面はなかった、と思いますが。

世の中の残酷さ冷徹さ、を描き出したのが「どろろ」というマンガ作品でありました。

 

どろろ」アニメ旧版の魅力は私にとってはなんといっても百鬼丸のかっこよさ、です。

百鬼丸は旧版でも「少年」と言われていたので10代の男子ではあるのでしょうけど、絵柄やセリフ立ち居振る舞いの落ち着きからももっと年長の男性のようなイメージがありました。

手足も首や体つきも太くたくましく描かれていて、細身の軽やかな少年主人公が主流の日本アニメ界においては稀有な造形の主人公だと思います。

流浪の旅を続ける武者らしく髪もざんばらに描かれてそれもワイルドな魅力でした。

マンガの百鬼丸はもう少し少年ぽい感じでかなり闊達に話していますが、旧アニメ百鬼丸はそのあたりのイメージも大人の男的な渋さがありました。

どろろ本人は旧版アニメもマンガとほぼ変わらない徹底した活発で抜け目ない男の子、といったイメージでした。マンガ以上に最後の百鬼丸のセリフ「おまえが女なのはわかっていた」シーンが唐突です。これは先日説明した「無情岬」がないせいですね。

旧版アニメの裏話を読むとかなりの苦労がわかりますが、まずなんといっても冨田勲の音楽が素晴らしくモノクロアニメに抵抗がある方はダメかもしれませんが陰惨な歴史ものでありホラーものでもあることがより際立つ効果になっていると思います。アニメの動きや脚本の進め方などは現代のそれらとくらべるとさすがに無茶苦茶に思えますが低予算でできる範疇で健闘していると思います。

特に1話目の恐怖感は悲惨な時代背景などの描き方は今ではできないほどの迫力があります。

が、逆に百鬼丸の殺人場面も壮絶なものがあります。

鬼神ではない普通の人、刀を持って百鬼丸に襲い掛かる雑兵ではありますが血しぶきが飛ぶ殺し方をしていくのですね。

時代的にそういったチャンバラ劇に慣れてしまっているせいもあるのでしょうが新版では百鬼丸の殺人について批判的な描き方をしているのは当然のことでしょう。

日本のアニメが外国では残酷だという批判を受けてきたわけですが、そうした部分が改善されていくのは良いことに違いありません。

 

そして「どろろ」アニメ新版について。

同じことを繰り返しますが、やはり百鬼丸の造形ですね。

どろろはマンガも旧アニメも新版もそれほど極端な違いはないのもある意味不思議ですが、やはり「まったく男の子としか思えないように生きてきた女の子」という設定はますます魅力的な条件になっているのかもしれません。時代的に若干可愛く描かれている気もしますが男の子らしいイメージは失われていないと思えます。

それと比較すると百鬼丸の改変は極端です。

アニメ旧版での並外れた男性的なマッチョイメージはすっかり薄れ線の細い中性的な造形になっており、旧版百鬼丸にぞっこんだった私はかなりの衝撃でした。

普通ならここでもう見るのをやめてしまうのですが、それに勝る予告編の美しい魅力がとりあえず観てみようかと思わせるものがありました。

失われた体の部分を一種の超能力でおぎなっていた昔の百鬼丸と違い、ほぼ何もできないような状態で旅を始めた百鬼丸という設定には惹かれました。

刀が欲しいために百鬼丸に近づいたのが昔のどろろですが、新どろろはこの何もできないまま野望を成し遂げようとしている百鬼丸を助けたい、という気持ちに動かされています。勿論それを利用して金や食べ物をいただこうかという算段はあるのですが。

つまりどろろ自体も昔は非常に男性的な欲望(武器を手に入れたい)が人生のエネルギーだったのに対し、現代どろろは困った人を助けその際に起きる利益で食べていこうかという女性的な発想に変化しています。そして「刀は嫌いだ」とさえ言っているのです。昔のどろろの目的すら否定しているわけです。

つまりどろろのイメージはあまり変わらない、と書きましたが根本的な部分で正反対になっている、ということです。表面的な男子イメージはそのままですが、内面的には非常に女性的になっているのです。

 

 百鬼丸の父の野望は「天下取り」から「我が領地の安寧」とこれも男性的な発想から女性的な守りになり、養父・寿海は「行ってこい」と送り出したままの昔版に比べ、新寿海は木の陰から百鬼丸の様子を見ているような世話焼きの母親的存在へと変わっています。昔版が百鬼丸に「パパ」と呼ばれ新版では「おっかちゃん」と呼ばれたのは単なるギャグではなく真実なのです。

 

次々と鬼神を殺し邪魔をする人間を殺すことに躊躇いのない百鬼丸が新版では仏の道を歩むことを悟るようになっていきます。

昔の正義が悪=「気に入らないもの」を退けるマッチョイズムなら、現代の正義は許容=他を許す母性的なものだという理想が新版から感じるのです。

 

まだまだどろろざんまい続きます。