ガエル記

散策

「この世界の片隅に」こうの史代・片渕須直 その1

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他の映画のレビューを書こうかと思っていたのですがやはり今先日テレビ放送があったこのアニメ映画について書いてみたくなりました。

まずはこのアニメ作品が作られた意義は特別なものだと思っています、と書かないわけにはいきません。ということはこれから先自分としては批判的な考えを述べてしまうからでありますが、現在日本アニメ作品が自分としてはほとんど観る気がしないことを考えれば戦争という題材で表面的なポルノ描写もなく制作されたうえで多くの観客を呼んだことは悲しいほどに希少なことだからです。しかも広島の原爆を間近で体験した平凡な女性の戦時生活を平凡に描いた、という内容はおよそ今の日本の人気作品には取り上げられないものをしてです。

 

今、絶大な支持のある京都アニメーション作品も私はやはり扇情的な演出ゆえの人気であると思っていますし、人気アニメ作品でポルノ的な意味合い無しに面白い価値があるのはごくわずかと言えます。

 

その中で「この世界の片隅に」という素朴な成り立ちのマンガがクラウドファンディングという形でアニメ制作され絶大な賛辞を得たのは特筆すべきことです。

 

しかしそのうえで私自身がこのマンガとアニメ作品に率直に感動と共感をしたと言えば嘘になってしまいます。

自分でもまだ固まっていない部分も多いのですがいつも通り迷いつつ書いていくことにします。

 

もちろん完全にネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

まずこれはよく目にした批判なのですが「天皇玉音放送終戦の知らせ」を聞いたすずさんの重要なセリフがアニメでは改変されている、という部分です。

いきなり核心へ突っ込む話になりますがここは見逃せることではありませんでした。

 

それまでずっと自分のことを「ぼーっとしてる」と表現しいつもへらへら笑って嫌なことも受け流してきたような彼女がこの放送を聞いた直後「うちはこんなん納得できん」と立ち上がり外へ飛び出します。

そして突然「この国から正義が飛び去ってゆく」ということばがページを大きく占めるコマで書き表された後、すずさんの横顔が描かれその後のコマに韓国・朝鮮の旗が遠景で描かれますがコマのなかの旗が占める割合は大きい。そして次のコマで「暴力で従えとったいう事か」次のコマ「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」次のコマ(すずさんの左手の大写し)「それがこの国の正体かね」次のコマ・打ちのめされたようなすずさんずくまる背中「うちも知らんまましにたかったなあ・・・」そして最後のコマは四つん這いになって大粒の涙をこぼし続けるすずさんの苦悶の表情のアップ、となります。

 

それがアニメでは「飛び去って行く、うちらのこれまでが」となっています。

「正義」ということばが「うちらのこれまでが」

さらに韓国の旗は描かれていますが広いアニメ画面の遠景の一部でしかも風でひるがえっているので旗の図柄は映画で初めて観る人には認識できないかもしれません。

マンガは止まった絵なのでコマ自体が小さくても気になればじっと見ることができますがアニメは動き過ぎ去ってしまうので一瞬見逃せばもうそこを見直すわけにはいきません。だからこそ重要な場面は演出を長く引くことで観客の目に訴えるわけですが一瞬で過ぎ去れば「その場面はあった」と言ってもマンガのように注視できないのです。

さらにすずさんの次の言葉は「ああ、海の向こうから来たお米・大豆、そんなもんでできとるんじゃなあうちは」となっています。

 

マンガで韓国の旗を映し「暴力で従えとったいう事か」という台詞はこの作品の核心なのです。「だから暴力に屈する。それがこの国の正体か」

このすずさんのセリフの改変を片渕監督は「すずさんのイメージではない言葉」と言いました。

この説明は本気なのでしょうか。

もしこれが「映画を作るうえで上からの圧力がかかり改変せざるを得なかった」というのなら私も残念ながら納得もできます。

しかし片渕監督が本当にそのつもりで改変したというのなら私はこのアニメ作品には「何の意味も無い」と言ってしまいます。

 

「すずさんのイメージ」とはなんでしょう。

ぼーっとして失敗ばかり、でもけなげで明るくて憎めない少女、ということでしょうか。そんな少女が突然起きた戦争のなかでいきなり結婚話がおきてもニコニコ笑いながら懸命にでも自然体で頑張る姿、ということなのでしょうか。

 

多少の違いはあれその当時の多くの少女が同じような経験をしながら生きていたのだと思います。

女性には選択権も発言権もなく親の言う通りに結婚し義父母に仕え夫を支える、すずさんはその通りの女性の一人でした。

そんな昔の日本女性のひたむきさに心打たれるのでしょう。しかしそんな女性たちが何も考えていなかったわけではないと思います。

片渕監督は「この原作の言葉はすずさんのイメージではなく、台所を預かる女性としてのセリフに変えました」と発言していました。

他のレビューにも同じように「とってつけたような発言だった」と表現している人が散見されました。

戦時中にものほほんとのんびりしたすずさんの生き方が現代人にも受けたのはわかりますが彼女が何も考えておらずいきなりとってつけた発言をしたわけではない、と私は思います。

原作にもそれまでにそうしたこと、をつまり日本が他国を近隣アジア諸国を暴力で従えていた、という描写はなにもなかったというのですが、それ自体が作品の演出の在り方ですずさんは日々そうした人々への日本の在り方を横目で見ながら見ぬふりをしていた平均的な日本人の考え方だったと表現している、のだと思います。

横目で見て見ないふり、考えないふりをしてのほほんと笑いながらすごしたい、これは現代日本の多くの人々の考え方と同じです。

しかし終戦という玉音放送を聞かされいつもへらへら笑っていられたすずさんはここで「真実」と否応なく直面させられたのです。

「うちも知らんまま死にたかった」

これも多くの現代日本人の本音です。

 

それを片渕須直監督はすずさんが自分の体は他の国のお米や大豆でできている、と考えることに改変しました。

もちろん、この言葉自体も日本の謀略によって貧しい国から食べ物を奪い取っている、という解釈ができるわけで間違っているわけではありませんが、大日本帝国の暴力が「食べ物を奪う」ことだけではない、ことは当然です。

 

今もなお引きずりどうしても認めたくないとかみつき続ける日本政府の前に亡霊となって浮かぶ「従軍慰安婦」と「徴用工」問題。

かつての日本が起こしたそして人々を巻き込んでいった戦争によってすずさんが大切な右手を失ったように彼女と同じ年齢の他国の少女少年たちも性奴隷となり或いは過酷な労働を強制され多くのものを或いは命を失っていったのです。

それは単に「戦争がいけない」というおためごかしなどで誤魔化せるものではありません。

すずさんははっきりと「それがこの国の正体かね」と叫びました。

それを「すずさんのイメージではない」とはなんでしょうか。

 

平凡な一人の少女が可愛い姪を奪われ自分の右手を失い、こらえきれずに叫んだ言葉を「彼女のイメージではない」という一言で改変してしまう。

その言葉をいうために作られた物語を「イメージではない」ということで変えられた、その作品にはもう元の魂は存在しないのです。

 

しかしかつての日本の暴挙を「日本はそんな国ではない」「世界中どの国もやっていたじゃないか」「他の国が作ったデマw」という意識にすり替えてしまう現代日本でこの作品を作るための片渕監督の断腸の思いの改変であるなら私は仕方ないとも思っています。それならば改変の説明としても嘘を言うしかないでしょう。それでも本気でやって欲しいとも思うのですが。

 

この世界の片隅に」というタイトルを「せいぜいこの日本の片隅に、じゃないか」とか言ってる人もよく考えてみてください。

すずさんという若いひとりの主婦が住む田舎町も世界の一部だと言ってるんですよ。

 

これから先の違和感は個人の趣味的な問題になるかもしれません。

 

上の文章は片渕アニメの改変への不満だったのですが、原作のこうのマンガ作品が好きなわけでもないのです。

これもまた上で書いた「このような戦時中を描いたマンガはそれだけで特筆ものです」という気持ちはあります。素朴な描き方も評価されるものだと思います。

 

ただ私はどうしてもこうの作品の良さが、率直に感じ取れないようです。

繰り返し、個人的趣味だとは思います。

 

「ポルノ描写もなく」と書いたのに否定しますがある意味「ポルノ的」ではあるのですよね。

多くの女性ファンもいるのですが、男性ファンの多さは特別だと思います。特にヒロイン・すずさんのほんわかした許容性のある愛らしさは日本男性のもっとも理想的女性なのです。

戦争が始まってもそれをなんとか生き抜いていこうとする前向きな態度、押し付けられた結婚相手と家族にも馴染もうとするひたむきさ、日本女性の美徳と言われていたようなものがすずさんには自然に描かれていて多くの日本人が共感するのはあたりまえなのでしょう。

でも私はそうした「すずさんの素晴らしさ」が気持ち悪い派、のようです。

なぜここまで嫌なのか、時間も来たのでまた改めて書くことにします。