現実に起きたことを物語作品とするのはフィクションとはまた違った難しさがあります。
特にそれが戦争というような複雑な要素が絡み合い容易に言明できない場合どのような事柄を拾い上げどのような人物によって語らせていくか、その選択が作品を大きく変えてしまいます。
観客が物語の正否を知っている場合、作品の嘘があれば露呈しますし、感覚が事実を知らない場合には嘘を教え込まれてしまうわけです。
無論観る人、作る人によっても事実の正否自体も個々によって差が表れてくるものです。
短い期間に『この世界の片隅に』マンガとアニメ。『はだしのゲン』マンガとアニメの冒頭部分のみ。そして実写映画『ひろしま』を観たのですが、題材が広島における原爆、という共通がありながら受ける印象はかなり違うものでした。
まず『はだしのゲン』は有名なマンガ作品ですが私はいまだに読んでいません。絵による印象が受け入れ難い作品なのでこれからも読むことはないと思います。
これを原作としたアニメ作品があるということでGYAOで観られると知って冒頭部分を観たのですがこれは現実の出来事をアニメ作品にする際やってはいけないことをしている最悪の出だしでした。
アニメーションで日本の町が爆撃を受けている場面が描かれます。真っ暗な夜空に飛行機が表れ大量の爆弾が投下され家屋に直撃し火事になります。そのアニメと同時にナレーションが入るのです。
「昭和16年12月8日日本はアメリカイギリスなどの連合軍を相手に太平洋戦争に突入。4年が過ぎた昭和20年、アメリカ軍は太平洋を次々と攻撃しながら日本本土に宣戦を絞り込んでいた。あらかじめ日本の航空基地を壊滅させたアメリカの第二十爆撃兵団は空の要塞と呼ばれるボーイング29の大編隊による日本本土絨毯爆撃を開始した。それは人類が初めて体験する激烈な空襲となった」(宣戦を絞り込む、という文がよくわかりません。戦線でも奇妙ですし、攻撃ならわかるのですが)
この間に映し出されるアニメーションはナレーションの絨毯爆撃の部分を表現しているようでナレーションとアニメに出てくる日付が異なるので混乱します。アニメでは日本の多くの町が凄まじい爆撃で破壊されていく様子が描かれています。
混乱した頭で観ていると昭和16年にしょっぱなから米英に絨毯爆撃をくらわせられて日本はやむなく戦争に突入させられた、かのように思えてきます。
とりあえず大まかに知っている私もそう勘違いさせられるような出だしなのですから何も知らない子供がこれを観たら(しかもこのアニメ作品は子供向けですね)「こんな爆撃を受けたなら戦争しても仕方なかったね」と思わせられてしまうのではないでしょうか。
しかもナレーションでは違うことを言っているのでクレームが出た場合は「ちゃんと説明しています」と釈明できるわけです。
とんでもないミスリードです。しかも戦争はいきなり始まったわけではなくこの太平洋戦争の前に日本のアジア攻略(侵略)戦争があった後での話です。そういった歴史を踏まえず、いきなり米英から空爆を受けたかのように(もちろん真珠湾攻撃の話は無視)作られた子供向けアニメ作品に驚いてしまっても無理はないはずです。
『はだしのゲン』マンガは(読んではいませんが)有名な反戦マンガ作品として有名です。まさかこのような出だしなのかと原作マンガの冒頭を確かめてしまいました。
安堵しました。少なくとも『はだしのゲン』マンガ自体はこのような無分別な出だしではなくゲンの家族が畑で作物を作っているという戦時中の生活を描いたものでした。続くページで戦争についての説明が書かれてはいましたが、このアニメのような狂った歴史観を持つ説明ではありませんでした。
長々と『はだしのゲン』アニメについて書いていますが、このようなアニメが子供向けとして作られ戦争の教育として与えられてしまっては子供の歴史観が基本から誤ってしまうと私は危惧します。
私は『はだしのゲン』アニメは子供に見せるべきではない、もしくは「歴史観を狂わせる例として「こういう作品が間違った認識を生むのです」という教材として使用されるべきと考えます。原作マンガはこれに入りません。
いったいどうして有名な原作マンガのアニメ作品がこのような間違ったものになってしまったのか、もしかしたら大人たちは確かめもせず子供たちに見せているかもしれないのです。
『はだしのゲン』自体はひとりの少年を通して戦争や原爆の悲惨さを訴えたものであるのにナレーションと空爆のアニメですべてを虚偽にしてからの物語になってしまうのです。私は冒頭から先を観ることはできませんでした。過剰に元気な主人公男子も違和感でした。もしかしたらマンガと違ってアニメのほうは戦争加担志向なのかもしれません。
それと比較すると『この世界の片隅に』は非常に優れた戦争作品になっています。
すず、という平凡なひとりの女性の目を通して描かれた戦時中の生活、という表現のために余分な情報は語られずに進みます。
この余計な情報は語らない、という部分が大切なのです。
アニメ映像を映しながらナレーションなどで違う印象を植え付けていく、という方法はもっとも危険なやり方なのかもしれません。
私自身は『この世界の片隅に』という作品をそれほど好んではいないのですが、作品の出来栄え、という意味では『はだしのゲン』アニメ(漫画ではなく)とは比較にはなりません。
どのような手法、どのような説明、どのようなキャラクターを使うか、事実を語るアニメーション作品の難しさ。
アニメは描けばすむ、ところがあるのであらゆることができてしまいます。爆撃機がすぐ用意できるのです。絨毯爆撃も予算の心配がありません。
しかしそれでも意味も無く、というより間違った印象を与えてしまう爆撃などを描かないほうが良い、ということがあるのです。
かつてのアニメはあまりにもそうした暴力を描くことに慣れてしまっていました。『はだしのゲン』の冒頭に空爆場面が必要なのか、作り手はよく考えてみて欲しいです。
その後で観た、関川秀雄監督映画『ひろしま』は真実を伝えようという意識が明確な素晴らしい映画でした。
原爆投下から8年後から物語が始まり、他所から赴任してきた男性教師が原爆症を負った生徒たちからその苦難を学ぶという形式は観客を共感させます。
被害にあった人々は生きていくためにその体を利用しなければならないという現実の恐ろしさに愕然とさせられます。
被曝を負った体は他の人から冷たい差別を受けてしまうという事実。消えることのないケロイド、疲労感、記憶力の低下などに苦しみながら「原爆に甘えている」と言われることに悩む子供たち。
被曝したこと、を理由にして努力をしていない、と言われる・・・今の日本社会でもよく問題になる人々の考え方ですね。
原爆の恐ろしさはもちろんなのですが、こうした事実が広島原爆の8年後にすでに描き出されていたのかと驚きました。
戦争の表現は単純に日本が被害を受けた、ということだけではなく日本が多くの国と人々にも惨い攻撃を与えたこともこの作品では語られています。
そのことで原爆を投下されたことが外国では当然となっているという事実も。また人種差別による意識があったということにも言及されています。
こうした事実をも含めて原爆という悲劇を描いた作品でした。