表紙がなぜベティ・ブープなのかは筒井ファンならすぐ判りますね。
などと書くとものすごい筒井ファンのような思いあがりですが実は最近はほとんど読んでいなかったのですね。
ひとつは小説を読む力が昔に比べると悲劇的に失われてしまっているからなのですが。読む時間がない、というのは言い訳にしかならないですが、本を読む視力と集中力が壊滅的なのは感じます。頑張りたい気持ちはあるのですけどねえ。
そんな年寄り読者が久しぶりに筒井著文学論を読んでみたら当然のことではありますが、星新一と小松左京についてのページがあり、ふたりについて親密な描写があったのでしんみりしてしまいました。
私は小さな時から不思議な話が大好きでした。日常だけの話よりも奇妙な話に興味がありました。なので必然的にSFという小説の分野がある、と知った時はたちまちにその道を走り出したように思います。
そんな私の目の前にすぐ現れたのが小松左京・星新一・筒井康隆の三人でした。
誰が一番好きかというような比較はできませんでしたね。あまりにもはっきりと個性が際立つ三方でSFの中にさらに三種類のカテゴリを確立されたという感じでした。
小松左京氏は本格SF、星新一氏は知的なショートショート、筒井康隆氏はハチャメチャな笑いとぶっ飛んだアイディア。
三銃士でありながら三賢人でもありSFの基礎を教えてくれた優れた三人の教師でありました。
この本の中で筒井氏が小松左京氏の知性を賛辞すると同時に恥ずかしくて書けないようなロマンチックな作品群がある、ことを暴露していて微笑んでしまう。
筒井氏は人類の絶滅は明らかだと考えているそうなのですが、小松左京は災害の時も「日本人は必ずこの困難を乗り越えるであろう」と人類を信じていることを筒井氏は記しています。
「やはり小松の親分、ロマンチストだったんだなあ」
筒井氏の感慨にも胸を打たれますが、小松左京が今現在の日本社会の迷走を見たらなんというのだろうか、とも思えます。
それでも戦争や戦後の悲惨さを考えればまだ立ち直る機会も力もあると思ってくれるのでしょうか。
日本社会が腐りきっていく様子を眺めていなければならない感覚しかないい現状のなか、文学はどういう力を持つのでしょうか。
出版社自体が腐敗を加速させていく実状をどうすればいいのか。
SF三銃士が若かりし頃ならこれに反応した作品が瞬く間に生まれたかもしれませんが、今それを期待するのは誰にだろう、と虚ろな眼差しを向ける場所もなく。
これは新潮社発行ですね。最近はやたらとそんなことを気にしなければなりません。