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もう少し『君たちはどう生きるか』について書こうと考えていたのですが、何十年かぶりにずっと観るのを拒否していた『火垂るの墓』を観たので先にこちらを書こうと思います。
最初に『火垂るの墓』を観たのはもうすっかり忘れていますがたぶん最初のテレビ放送時ほどではなかったでしょうか。でなければDVDのレンタルかもしれません。
小さな女の子と少年が死んでしまうという結末もあったのはもちろんですがどうしようもなく惨く苛立つ作品と感じてそれ以降放送されても観ようとは思いませんでした。
高畑勲監督が逝去されて頻繁に話題になることもあり、もう一度改めて観てみようと決意して鑑賞しました。結果観てみて本当によかったと思っています。
長い間自分が何に嫌悪を感じて拒否してきたのかがはっきりとしました。
『火垂るの墓』が作られて数十年経ちネットでも色々な情報や解説がなされていますし、私もそれらや監督自身の説明も少しは見て来たのですが今回鑑賞して感じたのは
「これは高畑監督がもっとも嫌だと思う人間を描いたのではないのだろうか」ということでした。
長く生きてきたせいもあって何かを観てると別の作品を思い出して共通性を感じてしまうことが多いのですが、このアニメ映画を観ていて思い出したのが山岸凉子著『負の暗示』でした。
『負の暗示』は実際起きた殺人事件「津山三十人殺し」をもとに創作されたマンガ作品です。以下はその作品の内容です。
1938年、日本の農村に住む青年が一人で次々と30人以上の村人を殺傷してしまうという事件が起きます。
彼は村の小学校では学業優秀とみなされていたのですが貧しいために中学へ進学できませんでした。両親が早く亡くなり祖母と姉に大切に育てられた彼は体が弱く家族でただ一人の男性であるにもかかわらず田畑作業もせずに村の女性たちとの性交だけを心の拠り所にする生活から逃れられませんでした。
姉が嫁ぎ、祖母は年を取ってしまっても働く気力がないままその日その日を誤魔化して暮らすうち、徴兵検査で“丙”の評価をされてしまいます。
当時“丙”の評価は男にとって屈辱的なものだったということです。彼は近寄ってはならない病人と判断されてしまいました。
そうなるとこれまで彼と関係してきた女たちはいっせいに彼を拒否しだしたのです。「優秀なぼくがなぜこのような目に」と怒った彼は彼を見下した村人を次々と殺したのです。
『火垂るの墓』の主人公・少年清太の姿は私には『負の暗示』の青年と重なりました。
清太は裕福な家の長男で運動能力も優れていて頭脳も明晰であるように見えます。母親は美貌で温和なイメージであり、父親は軍人で数年前にすでに巡洋艦に乗る大尉の位にある恵まれた地位の人物です。
『負の暗示』の侘しい優位性など何の意味も無いほどの輝かしい立場の長男には相当の自尊心があったことでしょう。
事実、清太はこの物語の中で一度も「他人の手伝い」「他人に頼る」「他人にお願い」することがありません。
14歳でありながら人前で困ったり、甘えたりする姿を見せるのは彼の自尊心が許さない、ということです。
この物語で清太兄妹が身を寄せる家の「おばさん」が意地悪であるように見えますが、おばさんは清太たちの財産が目的だったにしろ、二人を受け入れご飯の用意や皿洗いもしてあげていますが清太はそれを当然のようにして寝転んでいます。
後で彼自身が妹と自分のご飯を作り皿を洗う場面があるのですからできないわけではないのですが、他人の手伝いをしようとはしません。おばさんから「あんたの年なら町内手伝いもせな」と言われてもしないのです。
農家のおじさんから米や農作物を買いますが「ぼくたちはどうしたらいいでしょうか」とか「おじさんの家で働かせてくれませんか」とは頼みません。私は清太がこの農家のおじさんに懇願したら二人を置いてくれる気持ちはあったのでは、と思うのですが清太は「売ってくれないなら仕方ない」という態度で頭を下げて頼む、事は絶対にしないわけです。
それなのに農作物を盗むのは彼の中では正当化されます。
彼の自尊心にとって労働は絶対にしたくないのですが盗みは許されています。
この彼の不文律はいったいどういうことなのでしょうか。
清太の姿は以前話題になったニートになぞらえられるように思われます。(かなり制作時から時間は経っていますがあまり変わってはいないと思います)
ニートたちの中では「働いたら負け」という信念を持つ者がいると知った時は驚きましたがそうした言葉を作らなければ心が折れてしまうからでしょう。
清太はまさにその心境だったのです。
おばさんの家でもおばさんだけは嫌なら農家のおじさんのところでももしくは別の場所でも清太が生きる道はあったのですが、彼は「働いたら負け」とつぶやいて自分を正当化していました。
幼い妹はどうすることもできないでしょう。彼女は幼すぎてなにもまだ判らないのですから。
初めて観た時、ただただかわいそうに見えた節子ですが、今回彼女を見てこれも思い出したものがありました。
といっても私は『憂国』を読んだわけではないのですが映画の話などの報道を聞くたびその物語の内容を知り三島由紀夫自身がもっとも自分自身を色濃く描いた小説として自ら認めていたとも知りました。
その内容は若き軍人が226事件での責任を思い自決を覚悟する際に若く美しい妻もみずから共に死ぬことを決意する、というものです。
これを読んだ人はどのように思うでしょうか。
若く清らかに美しい妻が軍人である愛する夫と共に死に逝く姿に「なんというあっぱれなことよ」と美を感じるのか、「馬鹿々々しい何考えてるの」と呆れるのか。
しかし節子は幼くてまだなにも決意できる判断力などないのです。
けど兄の清太は自分と同じく軍人の子供である節子を下劣な民衆の中に置くことを良しとしなかったのです。
「あんな下賤なおばさんの家や農家などで下品な女に育つより立派な軍人の子として共に死のう」
清太は三島由紀夫が描く主人公でもありました。
そして節子はあまりにも清らかで死を選ばされた妻と等しいのです。
蛍は美しく光るけれどその命は儚い。
その美しさに見惚れる兄と妹。
生きていくことは時に醜く、辛い。
そした醜さや辛さを拒否するのなら死ぬしかない、と言われても「働いたら負け」という強い信念を持つ清太は「それなら死んだ方がまし」と何もわからない妹を死に追いやり自分もその道を選びました。
もし戦争という時代でなかったのなら清太は生き延びれたでしょうか。私はそうは思えません。
結局、今の時代でも彼は同じ道を選ぶのです。働いたら自分が自分でなくなってしまう、そう思っているからです。
せめて妹は生き延びれたかもしれませんが、それもどうなるのかはわかりません。
高畑監督は物凄い皮肉をこの作品にこめて自尊心だけを抱えて「いつ死んでもいい」と言っている人々に見せているのです。
自分の皮肉を表現するために、物凄いリアリティと技術力をもって優れたアニメーション作品を作り上げました。
ちょっとこのくらい壮絶な人はいない気がします。
清太がもう少し年上だったら『負の暗示』の青年の行動を取ったのかもしれません。