ガエル記

散策

『火垂るの墓』もういちど書く

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火垂るの墓』昨日このアニメ作品を久々(何十年か振り)に観て感じたことをそのまま書いてみたのですが、してみると私はまだ生きていくことに執着があり他の人々と協力して生きていくべきなのだと思っているようです。

 

昨日の考えをそのまま裏返してみれば、この作品は表面は当時の悲惨な子供たちの状況を描いているだけのようでいて実は今生きる人々を暗喩もしくは暗示しているのであるのだから主人公の少年清太に自分を投影していくのかもしれません。

 

私自身、自分は清太ではない、とは思えません。

むしろ清太そのもののようにも思えます。

子供の時から「自分はちょっと変わっている」とか「周囲と同じ行動がとれない」とか「馬鹿な大人はきらいだ」と思っていたりするわけです。

そういう考え方をする者は清太なのでしょう。

 

この物語で清太と節子の両親は生身で描かれないのは何故なのでしょうか。

ふたりとも記憶の中の姿だけであり、その姿は両方とも理想の両親として思い出されます。

一方や現実に存在するのは意地汚く冷酷と思える叔母、気の利かない警官、思いやりのない農民、小うるさい子供たち、という風に清太には見えていますがそれはそのまま私自身の周囲の人々への感覚なのです。

 

自分はそうなりたくない、そんな下品な人間と関係していくくらいなら可愛い妹や自分は死んだ方がいいのだ、と清太は死にました。

 

昨日、清太は三島由紀夫だと書きましたが、それは間違っていなかったのではないでしょうか。

醜いこの世界で生きるくらいなら死んだ方がましだと三島も清太も死んだのです。ふたりとも道連れも用意して。

自ら光を放つ蛍だけが美しい、でもその蛍の命は儚くすぐに死んでしまう。

 

高畑勲はもっとも嫌だと思う人間を描いた、とも書きました。

私自身、三島由紀夫の生き方死に方を嫌だと思いながらどうしても彼のことを考えてしまうのは嫌いながらその生きざま死にざまに強く惹かれているからなのです。

 

とは言えやはり自分が三島や清太のようではありたくない、とも考えてしまうのです。

なんとか生にしがみついて意地汚く生きていたいとも。

 

おおらかに「みんな仲良く」と歌えはしないのに、清太のように踏みつけながらも自我を押し通す気力もないのです。

 

それでも意固地に自尊心を守り続け死んでしまうしかなかった清太は私自身だと思ってしまうのです。