続けます。
樹木の名前が続きます。
橡
白柳
いずれも拾い画像です。
さて5ページ目のおわりに日浅という人物が登場します。
そしてそれまで自然の情景描写が主だったのが、6ページからは日浅の描写が中心になっていきます。
さらに7ページで「わたし」が「今野」という名前だとわかります。
そしてここからはとても1ページごと留まって分析しておられず、最後まで読み通してしまいました。仕方ありません。苦笑。
ところで私がカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ時はまだ話題になっていなかったこともあって内容をまったく知らないままだったのでかなり大きな衝撃を受けたのを覚えています。(まさかノーベル文学賞をとるなんて思ってもいなかった)
それと違いこの『影裏』は芥川賞を取ってから知った作品ですし、当然(というか)内容を少し聞きかじっていました。
つまり内容がLGBTと東北震災を扱ったものであることはあらかじめ知ってから読んでいます。
これを知ってから読むのと知らずに読むのとではかなり分析が違ってくると思います。
といっても内容がどのようにLGBTに関するのかは判っていなかったのですが、一通り読んでこの小説をLGBT本と称してしまうのに微妙な疑問を持ってしまうのは私が世間とずれているのでしょうか。
LGBTというカテゴリを置くことに反発心があるのかもしれません。
ところで昨今はLGBTなど目新しくもないじゃないか、という風潮もあるのかもしれないのにこの小説が芥川賞を取るだけの意味はどこにあったのでしょうか。
しかも「わたし」=今野という男性は日浅という男性に好意を持っているのにもかかわらず文章として性的な欲望や愛情を明確に書いていないのです。
今まででもゲイ小説として赤裸々なゲイセックスや恋愛感情を書いてきたものはありました。
そして逆に同性愛感情を匂わせでいるだけで表面的には描いていないという小説もありました。
ところが本作『影裏』ははっきりと「わたし」=今野がもともと男性と結婚してもいいと思うほどに深く交際していてことは書いているのにも関わらず、描写としてゲイセックスや愛情表現は書いていません。
つまりこれまでよくゲイ作品にありがちだった
「ゲイセックスを書く」
「わかるひとだけにわかるような秘めた書き方をする」
の両方をやらず
「ゲイセックスは書かない(その他の肉体接触も)」
だけど
「はっきりとゲイだとわかるように書いている」
のが本作なのです。
これは私が今まで読んだり見たりしてきたゲイ作品の描写としてはあまりないタイプのものですし、小説としてはかなり少ない、もしくは他にないのかもしれません。
そしてストレートの主人公がゲイの男から好かれる、という話でもなく、ゲイの男の挙動を観察しているような話でもありません。
主人公自身がゲイであり関係した男性との物語がありますがそれに対して社会的な差別意識の描写つまり「わたしたちの関係は人には言えないものだった」とか主人公に対して「あなたってこっちなの?」だとかそういったこれまでゲイ小説でうんざりするほど使われてきた表現が出てこない、これは画期的なことなのではないでしょうか。
小説と何度も書いたのはマンガではあるように思えるからです。
ひとつは『進撃の巨人』
このマンガ作品では女性と男性それぞれの同性愛描写が書かれていますがどちらでも今まで定番だった差別描写がされていません。
少女マンガではもっとあると思うのですがごく自然に同性愛関係が存在する、という記述になっているのは今でも希少であるように思えます。
そう言う意味で考えていくと『影裏』の紹介でLGBTが描かれている、という表現はぎりぎり受け入れるべきなのかもしれません。
この小説では「わたし」の日浅への思いが描かれていくわけでそれを「同性愛感情」というだけの言葉で紹介されてしまうのはどうかということでしょう。
ましてや「禁じられた関係」だとか「怪しいふたり」などという言い方などして欲しくもないのです。
映画化されるということで気になるのはやはりそういう描写を日本映画でそれほどできるのか、ということです。
これまでいくつも同性愛を描いた原作を「そうでない」ことにしてきた日本映画界が初めてこの小説のとおりに肉体的接触ではなく明確にゲイであるという描写をしてくれるのでしょうか。
宣伝言葉で同性愛を売り物にすることなく映画を観て感じて欲しい、というやり方ができるのか。そうでなくてはいけない、と思うのですが。
今日は読み進めてしまったので大まかに書いてしまいましたが、また少しずつ細かい部分を分析していきたいと思っています。
続きます。