続きます。
本書を分析していますのでもちろんネタバレになります。正解かどうかはわかりませんが。
その3までで書いたように『影裏』の主人公「わたし」=「今野秋一」が男性なのか女性なのかは未だ私にはつかめていません。
「秋一」という名前は通常日本名では「あきかず」「しゅういち」他にも多くの読み方ができますがほとんど男性名と思えるものです。
ただ日本名は珍名がかなり多いのも事実です。女性名として読むのなら「あきひ」などはどうかなと思います。
ルビが振られていないのでこれはもうどうとも言えません。
一方新しい友人・日浅典博は「ひあさのりひろ」とほぼ間違いなく読んでしまいますね。こちらの名前を女性名に読むのは困難ですし「わたし」自身が本書8ページ目で
そもそもこの日浅という男は、
と書き記しているのです。日浅に対しては「という男は」という男性を強調する説明をしているのに何故主人公「わたし」には男性もしくは女性だと示すような文字が一回も用いられないのでしょう。
小説を読めば主人公が男なのか女なのかを示す言葉というのは必ず出てくるものです。
例えば「立小便をした」とか「生理の日は気分が重い」とか単純に「自分が男だということに」とか「私たち女はいつも」とか。
しかもこの小説では「わたし」の容姿には全く触れていません。髪が長いのか短いのか、背が高いのか低いのか、自分だけでなく人から言われることもないのですね。
一方日浅の容姿は「わたし」の観察でかなりイメージできます。
もともとは見かけを気にしない「ラフな自由業者風の面影」が光るワックスで鶏冠のようなヘアスタイルとペイズリー柄のネクタイをしたスーツ姿で再会をして「わたし」はそれを新鮮に思うと同時に残念だという筆致で描いています。
「わたし」の容姿の描写はトイレの鏡に映った自分の姿を見る場面ですね。
ここで「わたし」は紺のY体のスーツとセルフレームの和物の眼鏡を着用していて2年間さほど変化していないと記述されています。顎のラインに丸みが出たようではあるが、と。
ここで出てくるY体のスーツという言葉は通常では男性服をイメージさせるといえるかもしれません。
いちばん細身の体型、ということですがこの言葉を女性向けスーツで使うかどうかは私にはわからないのです。女性のサイズは7号、9号というような数字が多く用いられるように思えますので。
なのでもしかしたらこのY体のスーツ、という言葉が「わたし」の性別を決める手がかりになるのかもしれません。
ただし、これはあくまでスーツの性別です。Y体のスーツ、が女性服にもあてはまってしまうのなら元の木阿弥ですが仮にY体のスーツは男性服のみの表現としても「わたし」が着用していたのが「男性用スーツ」だったということであって「わたし」自身が男性であるとは断言できないからです。女性の「わたし」がなんらかの理由で男性服を着ていた、という設定なら結局「わたし」の性別は「男性であるとは限らない」ことになってしまうのです。
では、戻って考えてみましょう。
なぜ本書『影裏』では主人公「わたし」の性別が一見すぐに男性だとして読んでしまうのに、よく読むと男性か女性か判らなくなってしまうのでしょうか。
これは昨日も書いたように私たち読者は文体や書かれている内容で「これは男性」と勝手に認識しているからですね。
作者が男性で一人称だとなんとなく男性だと思ってしまうのはあるでしょう。
しかし文体や内容が
私は家路を急ぎました。夕飯は手軽にできるものにしないと間に合わない。あの子たちには出来合いのから揚げでいいけど
というようなものであれば即座に女性なのだなと思ってしまうわけです。男がこんなことは考えない、という思い込みがあるからでしょう。
でもそんなことはなにも書いていません。これが夫であり父親である男の文章であっても構わないわけですが。
もうひとつ、不思議な文章があります。
本書に付随していた「帯」の文章です。
大きな崩壊を前に、目に映るものは何か。(交差する追憶と現実)
北緯39度。会社の出向で移り住んだ岩手の地で、
ただひとり心を許したのが、同僚の日浅だった。
ともに釣りをした日々に募る追憶と寂しさ。
いつしか疎遠になった男のもう一つの顔に、
「あの日」以後、触れることになるのだが……。
樹々と川の彩りの中に、崩壊の予兆と人知れぬ思いを繊細に描き出す。
amazonからコピペさせていただきました。(交差する追憶と現実)は私が書きたしました。実はこの文が最も重要なのですが。
つまりこの文章にも「わたし」が男なのか女なのかわかるフレーズがないのです。
本書の説明を以前読みました。
「東北大震災とLGBTを題材にした」
というものだったと思います。
その時東北大震災はわかるとして「LGBT」とは随分歯に物が挟まったような表現だな、と思ったのを覚えています。
まあ、LGBTという言葉が流行りだったので使用した、ということだろうとは思ったのですが通常なら
「男同士の愛の行方」
だとかいうような煽り文句が使われたりするものです。最初からLGBTだとネタばらしをしているのですから。人の気持ちを惹きつける大げさな表現がキャッチコピーというものです。
「男と男の出会いは愛か友情か?」
しかし本書の文章と同じくキャッチコピーまでもが繊細にならざるを得なかったのはそれを書いたら嘘になってしまうから、です。
もちろん内容として「わたし」の元恋人が男性から女性へと性転換の手術をしたことが書かれています。しかしこの話は本書の内容としてはかなり僅かな分量でしかありません。そのことをキャッチコピーとしてLGBTと書くにはあまりにも薄い理由です。
この短い小説の多くは「わたし」と日浅の関係なのです。
ではやはり「わたし」は男性で男性である日浅への思慕を(とりあえず文章としては日浅が「わたし」に同性愛感情を持っていたとは書かれていないので)LGBTと表現したのでしょうか。
それならば結局「男が男を愛する時」というようなキャッチを考えてもいいのですが、やはりしなかったわけです。
ではいったい、結局「わたし」は男なのか、女なのか。
なぜかamazonの内容紹介で欠損(削除?)していた文章
交差する追憶と現実
これこそが本書の神髄ではないのでしょうか。
大きな崩壊を前に、目に映るものは何か。
というのも素晴らしい文です。
目で文章を読んでいるのに私たち読者は勝手にそれを男性だと決めつけてしまい、本質を見極めようとはしません。
「わたし」が男性なのか女性なのかは
わからない
のです。
仮に「わたし」が男だとしたら、前に書いたように物語はたぶんパラレルワールドです。
男である「わたしが」男である副島和哉と付き合っていることをメールしていたなら結婚していただろう、と書いているからです。
現在の日本社会でそれはあまりに不自然な自然さです。
では「わたし」が女性であったらどうでしょうか。
男性である日浅とばかりべったり付き合って釣りをしていれば誰でも「二人は恋人同士」と思ってしまうはずなのにそういった感想を誰も言いません。
日浅がいなくなって従業員から言われるのが
「二人仲よかったもんねえ、寂しいんだよね」
これは明らかに男性友達同士に言う言葉です。恋人がいなくなった女性にかける言葉とは思えませんね。
もちろんこの言葉があるから読者は二人は男同士、と思い込んでしまうわけです。
仲良し男友達の片割れが急にいなくなったら周囲の人はこう言葉をかけるでしょう。
つまり周囲の人は日浅と「わたし」を男同士と見ている、と考えるのがまっとうなのでしょう。
ではいったい、「わたし」は男なのか、女なのか。
ひとつの仮説です。
「わたし」は女性だけど、男装をしており、男性として生活している。
つまり誰もが「わたし」は男性だと信じ切っているけど実は女性なのです。
過去、副島和哉と交際していた時は見かけも女性だったのではないでしょうか。
だから家族に付き合っているとメールしていたら結婚していたはず、となるのです。
でも交際中に「わたし」は「なにか違う」ことを感じたのです。
それが「なにか」はわかりません。
これも憶測ですが「わたし」は女性として生きるより男性として生きたくなった。しかし東京では変化しにくい。
そこへ東北へ行く機会が訪れて男性として再出発することにした。
そしてもうひとつ、男性になろうとした「わたし」は恋人の和哉を男性として愛していたのだが和哉は女性になりたがっていた。二人はグルグル回るような問答をしたのち別れることに決めた。
和哉は女性に性転換した。男性を好きな「わたし」はもう和哉を恋人としては愛せない。
男装して男性として生活することを決めた「わたし」はある意味同性愛的に男性を愛してしまうのだ。
男らしい風貌の日浅を「わたし」は好きになった。
では日浅は「わたし」をどう見ていたのか。
はっきりした記述は見つけられないようですが、いくつか「わたし」が日浅に自分の秘密を教えていたのではないか、と思える箇所があります。
それは本書45ページなのですが、なんとも判りにくい描写をしています。
今朝はここまでにして次回、そこを分析していきたいと思います。