ガエル記

散策

沼田真佑著『影裏』を読み解いていきます。その7

続きます。

 

もっとも重要なのはこの小説が一人称で書かれていることです。一人称はそれ自体がミステリーです。

 

一人称で書かれた小説は注意しなければならないということを私はアガサ・クリスティの傑作『アクロイド殺人事件』とウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』で学びました。

『アクロイド』は言わずもがなですが、『ロリータ』は本好きそして小説を書こうと思う人間ならば必読の書だと信じます。

『ロリータ』を単なるロリコン話だと思ってロリコンは趣味じゃないからとかで避けている方は勿体ないです。

むしろロリコンやロリータを嫌いな人ほど冷静に読めるでしょう。

『ロリータ』は計略的なミステリーであると気づくはずです。

つまり一人称の意義は「すべての話がどうとでも書ける」ことにあります。

ミステリーのモラルとして「嘘をついてはいけない」わけですが、(嘘をつけば読者は失望し作者を軽蔑するでしょう)文章表現として嘘をつかず読者を欺いていくところに醍醐味があり読者もその挑戦を受けることに武者震いをするはずです。

例えば一人称の主人公があることを「知っている」のにセリフで

 

「私はそんなことは知らないよ」

 

と言うのはその小説世界で嘘をついているのですからOKであり地の文でその説明をする必要もありません。賢明な読者ならこのセリフは嘘で本当は知ってるに違いない、と見破らねばなりません。

しかし一人称の地の文はそのまま主人公の心の声になりますから地の文で

 

私はそんなことは知らなかった。

 

と書くのはアウトです。知っている事実を隠したければ地の文に書かないようにするか、巧妙な書き方で読者を誤魔化さねばなりません。

主人公の心の声を読むことでミステリーの謎を解かねばならない読者にはルールにのっとったヒントを与えていかねばならないわけです。

 

ところが三人称になり神様の視点で物語を進行する場合はこうした策略は図れないことになってしまいます。神様はすべて公平に語らねばならないからです。

 

つまり一人称で書かれた小説は「どれだけ巧妙に嘘をついていくか」「どれだけ読者を騙していくか」「ただしルールを守り公正なヒントを与えねばならない」ところに面白さがあり、そうした策略のない一人称は意味がないように思えます。

 

アクロイド殺人事件』と『ロリータ』はそんなルールにのっとった素晴らしいミステリーでありますし、本作『影裏』もまた優れた一人称小説として歴史に刻まれたのだろうと私は思いました。

『影裏』は最高のミステリーとして読まれるものではないでしょうか。

 

 

さて、昨日までで全体の分析をしたと思えていますので今日は細かい点を少しずつ。

 

多くのレビューが「自然の描写は素晴らしいが、何事も起こらない小説。淡々と日常を描いている。東北大震災についても少し触れているだけ」というようなものなのですが、細かく見ていくと文章の一文一文が読者を欺き目眩ますまさに影と裏のある罠になっていることに気づかねばなりません。

「わたし」が日本の小説によくある「どこにでもいる普通の平凡な男」として読んでしまうとそれに気づかず「なにも起きない小説」になってしまうのですが、たえず何かが反応しているのです。

 

「わたし」が日浅を見る目は「どこにでもいる普通の平凡な男」が持つものではないのです。

本書5ページで登場した日浅は次の6ページで水筒の水を

 

喉を縦にして美味そうに飲んだ。

 

この喉を見ている「わたし」は明らかにそこに性的な眼差しをしています。

 

ゆうべの酒がまだ皮膚の下に残っているのか、磨きたての銃身のように首もとが油光りに輝いている。

 

ゆうべも共に酒を飲んだわけです。首もとが黒々と汗で輝くと感じることも性的な視線です。

台詞も性的な意味合いを持っていると私は感じていますが、あまりにも初歩的のようにも思えてここでは割愛します。

 

ある日突然「わたし」は日浅の退職を告げられますがこの時「わたし」は日浅ならこんな仕事に満足はしていないだろう、と納得しながらも掛けがえのない友人を失ったことにがっくりときます。

つき合いやすい同世代の独身の男をさがしている、と「わたし」は書いていますが,この「付き合いやすい」は「わたし」にとって大切な事柄です。

 

そして突如登場する同じアパートの住人・鈴村早苗さん、八十歳を越える彼女は「わたし」にとっては祖母の世代となるわけです。

「わたし」は細かいことにうるさく、いきなり大声で怒鳴りつけたり、かと思うと元教え子のお嬢さんが書いた作文を隣人に配布するというこの老女に自分の将来の姿を見ているのではないかと思います。

 

パートの西山さんとの会話で「わたし」は早急に恋人が必要だと感じています。

「わたし」という人物はとても前向きに人生を歩む人間だと思います。

「わたし」はさまざまな事柄を秘めながら生き抜いていこうという信念を持っています。そして日浅はきっと生きていると信じて彼を探そうと決意するのです。

 

そうした強い意志は小説の文として直接記述はされませんが、「わたし」はぐじぐじと思い悩むことがなく行動していくのが潔いのです。

 

岩手県を舞台にした日本的な話のようでいて全体の印象はアメリカ文学のようだと感じました。

文体のせいでしょうか。

釣り、ということもアメリカ的なのかもしれません。

読後感も「グレートギャツビー」を思わせるものがありました。

短い小説ですが芥川賞を取るにふさわしい内容だと思います。

沼田真佑氏はまだ別作品がないようですが、是非また自作品を読みたいと思っています。

 

f:id:gaerial:20191014070948j:plain

映画『影裏』

 

 映画でこの小説をどのように表現するのか、できるのか?

すごく興味があります。