ガエル記

散策

『キング・オブ・コメディ』マーティン・スコセッシ

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『ジョーカー』が絶賛上映中のようですが、自分が観られるのはまだ随分先なので影響元かと言われている本作、未鑑賞だったので観てみました。

 

スコセッシ&デ・ニーロの『タクシー・ドライバー』は優れた内容で大好きな映画ですが、同じタッグで作られた『キング・オブ・コメディ』は同じく優れていますが大好きというには怖ろしすぎる出来栄えでした。

 

『ジョーカー』の内容はまったく知らないし今は知ろうともしていないのですが『キング・オブ・コメディ』がコメディタレントというショービジネスに偏ったキャラクターだったのをもっと普遍的にしたものであろうか、と考えます。

ただしどちらも男性キャラクターなのは致し方ないものか、とは思います。

 

ちょっと逸れてしまいますが、世の映画・小説の主人公が男性が圧倒的に多いのはこれまで作者が男性だったことが原因ではありますが、もう一つの理由として男性が主役であっても女性は自分をそれに当てはめて共感できますが、男性はヒロインに共感すること、つまり自分を彼女に当てはめるのは苦手だということもあるように思えます。

女性が考えたり行動しても男性は「女性だからそうした」と考えてしまいがちで、したがって女主人公にした場合は男性の賛同が得にくくなると思います。

 

『キング・オブ・コメディ』では女版パプキンも登場するところが面白いですが『ジョーカー』には彼女は存在していないのではないか、と思っています。

(これは観て確認するしかないですね)

 

さて『キング・オブ・コメディ』1982年に製作された作品ですがサイコパスの切れ味が今鑑賞してもまったく鈍く感じられないのに驚きです。

wikiで見るとスコセッシ監督はこの脚本に乗り気じゃなかったのにデ・ニーロのほうが口説き落として映画化したような感じなのですね。

興行的には失敗だったにもかかわらずじわじわと評価を高めていくのは凄い映画の証しのように思えます。

 

今公開中の『ジョーカー』だけでなく多くの作品に影響を与えているのも興味深いです。

昨日まで書いていた『影裏』が一人称のトリックを駆使した小説だと感じたようにこの映画も一人称的策略によって作られています。『ロリータ』と同じくですね。

パプキンの言動がどこから現実で妄想なのかの境界線が判らない、という部分ですね。

全部が妄想、としてしまえば逆に興味は失われてしまうかもしれませんが、コメディ界のキングとなりたいパプキンは事実コメディ界のキングであるジェリーと「友だち」になることでそのチャンスをつかもうとし、幾度となくジェリーと親友であり深い関係であるという妄想が現実と重なるようにして映画は作られていきます。

途中、好意を持っている女性リタの目の前でジェリーに追い出されるという羞恥を感じさせられてからは自分と同じサイコパス仲間の女性マーシャとともにジェリーを誘拐してテレビ番組出演をさせるよう脅迫していくあたり妄想場面が止まってしまいますが、最後パプキンが逮捕された後の「自伝を出版してベストセラー、出所後テレビ界で待望の再デビュー」は間違いなく明らかに妄想場面として受け止めましたが、世間ではこれを事実としている方も多いようでレビューで「くだらない」と書いているのを見て「はあ?」となりました。

(また余談ですが『タクシードライバー』もラストを女に一泡吹かせてやった、と奇妙にとらえている方がいるようですが違うでしょう。スコセッシ判りにくいのかしらん)

 

まあまあ現実にも奇妙な人気というものは存在しうるのですが、パプキン氏がコメディアンとしてテレビで人気になることはない、のではないでしょうか。

しかしそういうこともあるかも、と思うのも怖ろしいですが。

 

現実、芸能界に興味がないという人間でもこれが小説・マンガだとか他の色々なバージョンに置き換えて考えることはできますね。

なにかに打ち込んでいる人間はその世界で認められ評価され「凄い才能だ!」と賛辞されたいものです。

そういう妄想をまったく抱いたことがない人間というのはいないのではないでしょうか。

料理でもスポーツでもおしゃべりでもなんでも考えられます。

その世界で人気者である人物の親友となり自分も新しい人気者となってみたい、SNSの世界ででもありそうです。

 

そんな誰しもが考える妄想をパプキンは実行してしまったわけです。

それにしてもマーシャが気の毒でなんとも侘しいではありませんか。利用されて捨てられて、ですよ。(いや自業自得なんですけどね)

 

大体が映画関係者やショービズ界は現実と妄想が入り乱れている中で生活しているようなものなのだろうと想像します。

小説・マンガを描いている人やオタクたちもそんな危うい境界線を行き来しているのではないでしょうか。

現実よりも妄想の中で生きていきたいとすら願ってしまう人もいるでしょう。私自身、そう思っているのかもしれません。

 

とんでもないサイコパスでありながら皆が共感してしまう人格をこの映画でスコセッシとデ・ニーロは作り上げてしまったのです。

 

キリストと重ねられるトラヴィスよりパプキンが怖いのはそこなのですね。