ガエル記

散策

『バルバラ異界』萩尾望都 ー夢と現実は交差する幾たびもー

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また読み返した『バルバラ異界』読み込むととても面白いのですが、最初読んだ時は難しくてすぐに入り込めなかったのですが何度も読み返すごとにその世界に深く入り込んでしまう気がします。ちょうど渡会が他人の夢の中に入っていくように。

 

どうすればこんな、時間と空間と人間関係が複雑に交差し絡み合っている物語を紡いで織り込んでいけるのでしょうか。望都さんの言葉によると最初はこんなに長い作品にするつもりはなかったということですし、バルバラの「青羽はなぜうまく飛べないのだろうか?」(吾妻ひでお氏質問)が生かされる筋道があったそうなので萩尾望都さん自身もバルバラ異界に浸っている間に複雑な夢と現実を往復されたのではないだろうかと思われます。

 

私自身は読むごとにバルバラ異界に入り込みやすくなってしまっていていつか読み返した時にバルバラに入り込んでこちらに帰ってこられなくなってしまうかも、という思いがあります。

実際読んでいて戻ってこなかった人もすでにいるのではないのでしょうか。もちろんこれは本読み(映画観の場合でもいいですが)の至福でもありますが、また好きな物語の中に没入してしまう快楽ほどの快楽は他にないのではと思うのです。

(嫌いな作品に没入してしまう危険性はないと信じたいですね)

 

バルバラ異界』の面白さのひとつは通常ならば主人公は少年「キリヤ」くんになるはずの特に日本マンガのルールを破って、若くてイケメンではありますが「お父さん」である渡会氏が主な視点になっていることです。

特に萩尾望都は「少年」を主人公にした作品が多い作家ですし、また「親に対する確執」がほとんどすべての作品を通じて語られてきたものが本作では父親が心の通わない息子の愛情を追い求める、という逆転した形になっていることは萩尾氏の精神の成長も感じられるわけです。

とはいえ、現在進行中の『王妃マルゴ』は再び娘の母親への確執の物語なので、さすがに萩尾氏にとっての同性(母対娘)のほうは異性(父親と息子)の場合のように簡単に処理できないもののようです。

 

そして萩尾氏が確執を感じるのは権威的な家父長制に君臨する親であるわけで本作に登場する「父親」渡会がいつもおたおた焦っているのは堂々と威厳ある父親には共感や好意を持てない為でありましょう。

息子キリヤに頭が上がらず自分がどう行動すればいいかも判らず、すぐ泣いてしまう気弱な父親像を作ることで、初めて萩尾望都は「父親」の存在を許可できたのではないでしょうか。

一方のキリヤくんはいかにも十代の少年らしい純粋さを持っていて自分の正義だけを中心に行動していきます。この無鉄砲さの描き方が萩尾氏は実に魅力的で上手いと思うのです。

一見ワガママにしか思えないキリヤを息子として愛したい、父親として愛されたいとがむしゃらに迷走する渡会の純真さにも惹かれます。自分の好きな方向へ突っ走るキリヤを理解はできないままなんとかその愛情を繋ぎ留めたいという渡会のような父親を萩尾さんは望んだのですね。

 

他人の夢の世界に入り込む、ということはさておいてもキリヤくんのようにネット上にバルバラ異界を作り出して遊ぶ、ということは将来的にきっと皆が夢中になることのように思えます。

ネットで自分だけの世界を構築し自分の意識とつなげてトリップしていき、他人もその中に入ってくる、というものは多くのSFにある設定のひとつです。

この夢の世界へのトリップができるようになれば本当に誰も彼もその遊びに夢中になって現実に戻ってくるのは苦痛でしかないでしょうね。

 

とりあえず現在はその世界がまだ確立はしていないわけで、私は萩尾望都の『バルバラ異界』を読むことでしばしトリップすることに甘んじようと思います。