ガエル記

散策

『ウィンド・リバー』のコリーは『モヒカン族の最後』のホークアイ

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最近にしては珍しく二度観てしまいました。

腹の底から唸り声をあげて訴えるような凄みのある映画です。この苦しみがわかるか?どうすればいいんだ?どうすれば?

 

何もかもが悲しくてやりきれない映画です。

怖ろしい土地に住む主人公の男と都会から来た美人FBIはよくあるように恋に落ちたりなどしません。

男は「あんたは強い女だ。戦って生き残りそして出ていく」と言います。

来た時は何も知らず「ぎりぎり大人」の彼女は身を持って体験しここで生きることがどんな怖ろしいことなのかを知るのです。

 

「運命」という言葉があります。

どこで生まれ何人種とカテゴライズされるのか、自分の人生がどう決定されてしまうのか、裕福なのかそうでないか、健康なのかそうでないか、男なのか女なのかそうでないのか。運命を変える力はこの世にあるのでしょうか。

 

凍てつく雪原を10キロも走り続けた素足の少女を冷静に考えることができるでしょうか。凍った空気を吸い込むとすぐに肺は破れてしまうというのです。

彼女がなぜそんなにも走れたのか、私たちは考えなければなりません。

 

それでもこの映画をもう一度観たくなってしまったのはただただ悲しい映画だからではなくて主人公コリー・ランバートをもう一度観て自分の記憶にとどめたくなったからでした。

昨日も書きましたが、彼を見てすぐ思い出したのは子供の時何度も読んだ本『モヒカン族の最後』で大好きだったホークアイです。

この映画はテイラー・シェリダン監督自身の脚本です。知ってはいませんがたぶん監督ご本人も彼のイメージがあったのではないかと思ったりします。(違うだろうか)

白人男なのにネイティブアメリカンと家族のように仲良くし大自然と共に生き、そして無類の銃の名手であり鷹の目のように遠くまで見通せる。

本作コリーはその鷹の目を人間の生きざまのほうへ向けて描かれていたように思えます。

その彼でさえもこの厳しい土地で生きるのは困難だったのでした。

 コリー・ランバートの弱者への女性への優しい目線を見たくなりもう一度観たのです。

映画における弱者に対する女性に対する怒りをもう一度観たかったのです。

まだなにも知らなかった女性FBIは父親に聞きました。

「なぜ彼女をひとりで行かせたの」

これは日本でも性犯罪が起きた時必ず聞かれる問いです。

犯罪者が悪いのではなく、被害者にその親に「何故のこのこレイプされに行ったか」と問う。

誰もがまっとうな人権を持つことを問うより先におまえに人権などないと念を押すのです。

どんな場所にも幸福があって欲しいと思います。

しかし差別は差別を生み、不幸は不幸を引き寄せていく。

「この土地には何もない。この冷たい雪しかない」

だから俺は不幸で女をレイプしたと、不幸な男は言いました。

なぜ?

愛し合っているふたりを祝福することができれば彼もまた同じように祝福されたでしょう。しかしそんなことはできないのです。

 

 

アメリカの古典『モヒカン族の最後』の最後は白人男ホークアイとモヒカン男チンガグークが愛する息子を失った悲しみを語る場面で終わっていたと記憶しています。

「あの子アンカスは俺たち二人の息子だった」という言葉は忘れることができません。

同じようにこの映画の最後も白人男コリーとネイティブアメリカン父親が失った互いの娘を思いやる場面で終わります。

しかしこの映画は現在の話であり遠き昔話ではありません。

 

誰もが幸福になるべきです。

幸福が幸福を招くように。

それを偽善だとか夢物語だとか冷笑するような人と話す気持ちは少しもありません。