ガエル記

散策

元農水事務次官長男殺害事件

この事件への「抒情酌量の余地あり」という反応は上級市民だからというのでしょうか。それとも本当に多くの人が被告に同情しているのでしょうか。

もし真実に被告の殺人が共感され執行猶予を求められているのなら怖ろしいことだと思っています。

 

私は法律も哲学も本格的に学んでもいない人間ですが、この事件とそれに関する報道そして様々なコメントに関して感じたことを書いてみたいと思います。

 

違和感を覚えた報道のひとつはこれでした。

www.fnn.jp

たまたまテレビをつけてこの報道を見たのですが、スタジオ中が熊沢被告に対し同情を述べていて裁判所も通例ないほど被告への気遣いを見せた、という表現をしていました。上のリンク記事の最後にそれが書かれています。

またその後に続くコメントも熊沢被告への共感が多く幾つかの「殺人はいけない」といったコメントには必ず「おまえだってこの状況なら殺すに違いない」という反論がついています。

 

近年特に日本人の心情を物語るような事件を見聞きするたびに「日本人は最も大切なことを学んでいないのではないのだろうか」という恐れを抱いてしまいます。

私もよくわかってはいませんが、そんな授業なり教えなりを受けたようにも思えないのです。

人間にとって最も大切なもの、といってもいくつかあるでしょう。

人を愛する。

人を(自分も他人も)殺さない。

人を(自分も他人も)傷つけない。

などということです。

 

「被告は懸命に息子を支え続けてきた。その息子から暴力を受け、次は他人を殺すかもしれないと思って自らの手で息子を殺すことでそれを抑えたのだ。立派な行動だ」という考え方のコメントが非常に多いのは不安です。

もちろん現在被告と似たような状況が日本に蔓延していることは判っています。

それだけでなく私の家族も似たような状況にあるのかも、と思っています。自分の息子が20代半ばでまだ自立できていないからです。

人が親となり、子供を懸命に育ててもその子供が思ったとおりに成長しないことはままあります。

その時に

「懸命に育て続けてきたがうまくいかなかった。殺してしまおう」

となることを認めてはいけないと私は思います。

 

それは目指す国家ではありません。

そんな状況になってしまった場合、相談しサポートを受けられるような社会を目指すべきです。被告は政府に関わった人物でもあるのですから通常以上にそうしたサポートを受けシステムの向上をさらに高めるように働きかけてもよかったはずです。

 

しかしこの事件の根本的な間違いは別のところにあると思っています。

被告は俗にいう社会の中のエリートであり被害者は俗にいうひきこもりという落ちこぼれ、ということになります。

でもそれは誰が決めることでしょうか。なんとなく「世間というもの」となっているのではないでしょうか。エリートなのか、落ちこぼれなのかを決めてしまうのかは自分自身です。

 

また被告はかなり裕福であったと想像できます。貧しいがゆえに逃げ道がない場合はありますが彼の場合は多くの選択肢があったのではないでしょうか。

そう思っていた時に次の報道を見ました。

www.j-cast.com

 

この報道を見て状況が見えてくるように思えました。

 私は今までよく事件を飲み込めていなかったようです。被害者である息子が父の家に戻ってわずか一週間後の殺害だったのですね。

この記事に書かれているように被害者本人は心の内をはっきりと訴えていたのに返ってきた言葉が「住んでいたマンションのごみを片付けにいかないとな」だったのはどんなに悲しかったでしょうか。

なぜこの時、父母は嘆く息子を抱きしめてあげられなかったのでしょう。きっと何度も変われるチャンスはあったのでしょうが、この時が最後のきっかけであったように思えてなりません。

 

またとても不思議なのは日本で事件が起きた時、その多くは母親が前に出てくるものですがこの事件はほとんどと言っていいほど母親の言動がわかりません。

鬱病だったと聞きますが、被害者が発達障害という説明も併せてそれが本当なのか疑わしいとも思っています。

また娘さんが兄が原因で結婚破談になり自殺した、ということも含めこの家族が逃れきれなかった「世間体」という意識の絶望的な歪みを感じます。

人は精神的な高みを目指すべきですが、この一家は裕福でありながらも心の豊かさを持ちえないために破壊されてしまったのではないのでしょうか。

豊かに生きる心の在り方をどうやって学べばいいのか、私にはすぐさま答えることはできません。

宗教なのか哲学なのか。

それは社会のサポートシステムを充実させると同じように国家にとって必要なことではないかと考えます。

つまり

「恋愛、結婚、育児、他色々な事柄が上手くいかなかったら相手を殺す」

という思考は間違いだという教育の必要性です。

 

なぜ

「我が子が上手くできなかったから殺す」

のですか。

 

我が子から机に叩きつけられて被告は生まれて初めての敗北感を味わったのでしょうか。しかし被害者はその屈辱を長い間感じ続けていたのではないでしょうか。

この時両親が被害者に優しい言葉をかけていたらどうなっていただろう、という悔しさを感じますが、被告は「他にどうしようもなかった」という無惨な言葉を残しています。

ほんとうに「どうしようもなかった」と思っているのでしたらこんなに残念なことはありません。

 

「息子以外の他者に危害を加える可能性はないため、執行猶予で良いのではないか」

というコメントも頻繁に見ました。

この被告自身が他者に危害を加えなくても、他者がその子供に危害を加える可能性を与えてしまったと言えます。

同じ状況の親が我が子を殺しても6年の刑ならいっそ、という思考回路を与えてしまいました。

被害者は父親を叩きつけたというのなら「殺害という死刑ではなくそれ相応の仕返しという判決」を下すべきだったでしょう。

 

子供に寄り添うなどという綺麗ごとなどできない、というなら金持ちの被告は妻を伴って別の場所に逃亡しそれこそ息子を見殺しにすべきでした。それは犯罪にはならない「殺し」です。本人も死にません。

多くの人々はそうしてきているはずですし、その判断は間違ってはいません。

「そんなことをしてもし息子がほんとうに他者を殺めたら」

まだ犯してもいない犯罪に対して先回りに死刑を下してはいけないのです。

 

社会の働きかけで被害者をそのような生活から脱却させられなかったのだろうか、そして被告もその妻もすでに亡くなった娘さんも狭い考え方から逃れさせることはできなかったのだろうか、と悔やまれてなりません。

 

それには何がこの国、この社会に足りないのでしょうか。

人間にとって最も大切なことはなにか、それを学ぶ機会がないことは不幸です。

その学びはどうやったらできるのでしょうか。