ガエル記

散策

『ヴィレッジ』M・ナイト・シャマラン

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これは最初からネタバレになります、と書いておきますね。ご注意を。

 

 

いろいろな見方ができる作品だと思います。

 

まずはレイ・ブラッドベリを読んでいたなら(か、萩尾望都の漫画化作品を)本作が「10月はたそがれの国」の一編『びっくり箱』からのオマージュということはすぐに連想されるだろうと思われます。筋書きとしてはそのまんまでありますね。

つまり外界を嫌った大人が子供(たち)をそれから遮断するためにひとつの場所に閉じこもって子供を外界に出さないために様々な嘘をつくが子供はある時外界に出てしまう。

違いは『びっくり箱』では外界に出た子供が外界の素晴らしさに感動するのが本作では「目が見えなかったために」(だけではないのかもしれませんけども)素晴らしさなどには気づかずそのまま元の世界「ヴィレッジ」に戻ってしまうというところでしょう。

ではなぜシャマラン監督は『びっくり箱』とは違うラストにしたのか、そこに監督の思いがあるのではないでしょうか。

 

この映画は「シャマラン監督の恒例のどんでん返し」ということを謳っているようですが、監督はそれほどどんでん返しを仕掛けていたのではないのかもしれません。監督の狙いはそうした脅かしではなく、むしろこの奇妙に見える「ヴィレッジ」は実は私たちの住む社会そのものなのですよ、という意地悪な笑いのほうにあるように思えます。

 

特に現在の日本社会を見ていると政府は外界=日本以外の国々の進化を見せまいとし、日本がいかに素晴らしい国、「美しい国」かということを謳い上げ隣国がいかに「怖ろしい国」本作で言えば化け物が襲ってくるかのようなことを常に叫んでいます。「ミサイルが飛んでくる」というようなことですね。そしてかつて高度成長した力があり、優れた文化を諸外国が憧れているということのみを賛辞し、いつの間にか近隣諸国のほうが成長し追い抜かれてしまったことはひた隠しにしようとする、それはこの『ヴィレッジ』で描かれたホラーと何の違いもないことです。

 

もう一つ気になるのはこの村の住民が白人ばかり、ということです。

作られた村、であるにもかかわらず、もしくはだからこそ、その選択は「白人」に限られています。

それは選択した人々が異人種を排斥したということに他在りません。これが他の「白人」監督であれば監督自身の主義あるいはうっかりということもあるでしょうがシャマラン監督はインド生まれでヒンドゥー教徒であることからこの設定が「皮肉を込めたもの」であることも確実でしょう。

 

翻って現在の日本社会も極端な純血主義に偏っています。麻生副総理の「日本人はひとつの民族ひとつの原語」発言がそれを表しています。実際にはそうではないことは知っていても現在の日本の副総理は「日本は単一民族である」「つまり他は日本人ではない」と発言しているわけですね。なんという「ヴィレッジ」でありますことか。

ヴィレッジの住民である私たちはあらゆる手立てで外界から遮断されています。

よく「日本人はいつまで経っても英語を話せるようにならない」と自他ともに認めていますがこれも外界遮断のひとつなのではとも思います。英語が理解でき会話できるようになると外界の情報を知ってしまうからです。

ひとつにヨーロッパでは脱原発が進んでいたのに日本人はずっと原発こそが最新鋭と信じ込まされています。なぜか?そうした報道がまったくされてこなかったからです。

もちろんそうした報道がされたら原発を推進している政府としては面倒です。だからこそ再生可能エネルギー発電の報道などはまったくされないのです。

これだけでも日本社会が『ヴィレッジ』であることは明確なのです。日本人は本作のヒロインのように外界に出ても何も見えないまま帰っていきます。

 

しかも本作でシャマラン監督はブラッドベリ『びっくり箱』のように「いつか子供は真実に気づきます」というラストを描いてくれませんでした。

『ヴィレッジ』の住民はいつまでもヴィレッジの住民なのです。

そしてそれを誇りとして生きるのです。

それが「あななたちの姿です」とシャマラン監督はこっそり笑ったのです。