すこしずつしか読めないでいるのですが、映画版との根本的な違いに唸っています。
はい、映画と原作が違うものであるのは確かですし、双方で問題が生じたわけでない限りそれをどうこう言ってもしかたないのですが、これは先に原作を読んでいて大好きだった場合かなりの衝撃だっただろうなと思ってしまいます。
ネタバレになります。ご注意を。
映画を観たからと言って未読の原作を読む、というわけではないのですが本作映画については物凄い疑問が湧いてしまって原作を確かめたいという欲求が抑えられませんでした。
映画の前編は一度挫折はしたものの観通そうと決意してからはとても面白く観終わりました。前編のみで言えば高評価の作品だったのです。しかし後編を観終わるとその前編の高評価さえも取り消さざるを得なくなります。
映画を観終わって私が感じたのは
「物語の鍵であるはずの少年ー柏木卓也について何故この映画ではほとんど語られていないのだろう」
前編では柏木が登場する場面は僅かでそれも強い印象を残す、というほどではないように思えます。
それは映画製作者が「彼の死は自殺か他殺かその理由は何なのか」という点を曖昧にして答えを知りたい欲求を後編につなげたかったためでしょう。
そして映画の目的が「中学生たちのみで裁判をする」という一点に絞られてしまっておりそのためには余分な枝葉と思われたのであろう部分が除かれ或いは変更されてしまっています。
原作では柏木卓也少年がかなり異常性を持ちながら成長していったことが物語の序盤から描かれています。
重要な役割として卓也の兄・宏之がその様子を語っていくのですが、映画では兄・宏之は登場しません。
物語の鍵となる少年を描写してくれる兄が登場しないとは。
それは映画では柏木卓也をがどんな少年だったかを語る必要性を持っていないからです。
そして小説では多くの人物が卓也と結びつき彼を殺害したのではないかというミスリードが施されます。勿論これはミステリーでは当然の仕掛けでありそれが多いほど物語は複雑になっていきます。
一方映画ではこれが単純化されており、不良グループの大出が犯人という一択で(映像まであるミスリードだがこれは反則かもしれない)実は・・・となっていきます。
この単純化もまた中学生裁判を判りやすくするためなのでしょう。
しかし小説では中学生である少年少女たちの心理を丹念に細やかに描いていきそれこそがこの物語の醍醐味であるはずなのに映画ではそれら最も重要な部分をすべて取り払ってしまっています。
いわば美味しいだし汁、栄養のあるエッセンスをすっかり捨ててしまって抜け殻のみを残して作ったともいえるでしょう。
柏木だけでなく「野田健一」もまた謎の改変をされています。
原作では「女の子のよう」と言われる容姿で家庭環境に問題がある彼もまた闇を抱えた存在なのですが映画では太めで人の良い友人という設定になっていて、なのになぜか最後に「ぼくもお母さんを殺したいと思ったことがあるんだ」といういきなりのカミングアウトをするのですがその理由も語られず告白だけが宙ぶらりんとなっていました。
ここでも複雑な人間関係を省略してストーリーを単純化してしまっているのですがそれはミステリーとしては致命的と思えます。
複雑な回路を映像化するためにはシンプルにしていくことは必要ではあるでしょうが、映画製作陣は明らかに間違った回路を選択していると思えます。