ガエル記

散策

『ソロモンの偽証』映画と小説の違い 1

f:id:gaerial:20200227065437j:plain

まだ読書中ですが、これまでに『ソロモンの偽証』映画設定で原作小説と大きく違う印象を持つ点を挙げてみようと思います。

 

まずは事件後の学校側特に校長の態度。

私が初回映画鑑賞をして中断した原因の大元は校長の言葉だった、と言ってもいいでしょう。

中学校内での生徒の死に対して映画での校長はこれを隠蔽しようと画策します。

これは報道などでよく見られる校長の言動と思われますし、そのため世間一般の「学校側の態度」を「絵に描いたように表現した」校長描写にげんなりして中断してしまったわけです。

ところが宮部みゆきが書く原作小説での校長はこれの真逆であり「校内での事件に対するステレオタイプ」とは違う校長像を登場させているのです。

あだ名も「豆ダヌキ」ということで映画で演じた小日向文世氏とはやや違う方向性のように感じます。校長として正当な態度を貫いた豆ダヌキ校長は早い時点で辞任させられてしまいます。

私自身がこの校長の描写違いで観るのをやめてしまったせいもあるのですが、ステレオタイプ校長に変更するのは大きなミスだと思います。

同じく同時期に学校をやめるのが主人公らの担任森内恵美子教諭です。彼女の設定は一番大きく感じられるのではないでしょうか。

原作では男子から人気の若い美人教師だったのが映画では物凄いビビり気弱で不思議ちゃん的なキャラクターになっています。黒木華さんがとても魅力的な演技で見せてくれていますので逆に原作を読んだ時あまりに普通キャラだったので驚いてしまったほどです。これだけは映画での思わぬ収穫だったかもしれません。

 

校庭で同級生の遺体を発見するのは映画ではヒロイン涼子と野田健一のふたりですが、原作では野田健一ひとりです。

映画では冒頭直後雪の中から目を見開いたまま凍った柏木卓也を涼子が掘り出すのですが原作では涼子はそこにいない、というのも重要な場面だけに奇妙に思えます。

映画では野田健一は太目で人柄の良い少年という感じですが原作では華奢で女の子のような少年、となっています。そのうえ重要なのは映画ではいきなり「ぼくも母親を殺したいと思ったことあるよ」という台詞をいうだけなのですが、原作では彼の心の闇がかなり詳細に描かれていくことです。

主要人物の描写がここまで省略されてしまうことに首をかしげますが映画では物語を単純にするために数多くの削除がなされており野田健一はそのひとりだったのです。

 

2巻を読み始めて「?」となったのは上の画像に出ている不良少女勝木恵子。映画では誰だったのか、覚えていません。原作では涼子と大出を合わせて話を取り持つ役なので忘れるわけはないように思えますが彼女も割愛されたキャラということですね。

 

分厚い三章に渡る長編小説を4時間半ほどの映画にまとめるにはもちろんどこを切りどこを主体とするかの選択が必要となるでしょう。

映画を観て「いったいこの映画はなにを表現しようと思ったのか」となってしまったために今少しずつですが原作を読んでいます。

今のところ感じるのは「中学生が裁判ごっこをする」という整合性を求めるために原作を大きく変更していった、ということです。

その変更は小説のもっとも重要なものを失ってしまってはいないのでしょうか。

 

さらに読んでいきます。