続けます。
ネタバレになりますのでご注意を。
読み進むほどに何故映画では柏木卓也をもっと深く描かなかったのかと不思議でなりません。
何度も繰り返しますが、この物語は彼の死にまつわる物語です。その当人がどんな人物だったのかを掘り下げないのは核心を見ないことになってしまいます。
映画は「中学生たちが裁判ごっこをする」という部分にのみ焦点をあてていますが、本当に見つめるべきは少年少女たちの心理なのです。
原作小説では柏木卓也の両親、特に父親と兄が彼についてそれぞれの角度から証言をしていきます。
これは一方だけであれば卓也の姿が偏ったものになる、という作者の配慮ですね。
黒澤明『羅生門』は同じものも別の人物の証言では違ったものになる、という巧みな仕掛けがなされますが柏木卓也に対する証言も小説では様々な角度から成されるのです。
ひとりの少年の姿を描写するための巧妙な技術です。
また映画では「自殺した少年」の正体がただの「おかしなヤツ」もしくは「不気味なヤツ」という表現になっているのに疑問を感じました。
あれでは柏木卓也など死んで良かった、と観客は感じてしまうでしょう。それは正しい表現だったのでしょうか。
映画と原作小説は別物です。それは当然で、原作のほうがよかった、映画のほうがよかったと思うことはあります。
しかし自殺した柏木卓也という少年と周囲の少年少女たちとの描写をあれほどに歪ませてしまったことは許される範囲を超えていると思えます。
日本映画が衰退していく原因はこうした物語の読み違えとテーマを深く掘り下げる能力の無さにあると私は思っています。
まだ読書途中なのでこれから先私自身もどう思うのかは未知数ですが映画はあまりにもステレオタイプな表現を並べすぎているのです。
宮部みゆき小説ではそのような印象はないのです。