ガエル記

散策

『鬼龍院花子の生涯』五社英雄 その1

f:id:gaerial:20200405052704j:plain

『鬼龍院花子の生涯』作者は宮尾登美子。1980年発行。

映画は1982年公開。ですが、当時は観ていませんし観たいとも思いませんでした。宣伝が

時期は忘れましたが相当後に、というより数年前に初鑑賞して感激しました。なので今回は再鑑賞となります。

 

公開時、私は19歳の計算になります。当時、夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」の決め台詞とともに凄い話題になったという記憶があります。が、私自身はまだ若いせいもあったのか上のポスターにあるような本作の宣伝イメージが気持ち悪くて観たいという気持ちには一切なりませんでした。

そもそも上のポスターの上部に書かれている「お父さん、やめて。もうこれきりにして・・・」って内容とリンクしているのでしょうか。もしかしたら「お父さんやめて」と「もうこれきりにして」は別の人物のセリフかもしれません。としたらかなり強引な惹句ですな。画像も内容とは全く別物のようにさえ思えます。

 

そしてそのせいで私は本作にまったく興味を抱くことなく観ないままになっていたのですが数年前つまり公開して数十年経ってから観た本作は見ごたえのある面白い作品でした。

当時宣伝がもう少し内容を反映した落ち着いたものであったら私ももっと早く観たいと思ったでしょう。その頃の映画会社の考え方のくだらなさに時を経てがっくりします。もしかしたら今でもあまり変わっていないのかもしれませんが。(とにかく日本の映画宣伝は質が低いので)

 

このポスター画像と宣伝文句はいったいどういう意味を持っているのでしょうか。

内容とは食い違う画像と言葉で客を釣ろうというのかもしれませんが、それなら「そういうもの=父と娘の繰り返されるセックス」を期待した客は「騙された」とがっくりするでしょうし(金さえもらえればそれでいいのかもしれませんが)逆に良い作品を望む客は観ないことになります。

ウィキペディアを読むとその頃の映画会社の体質「女優を脱がせる」ことにのみ意義を持っていることや人を騙して(梶芽衣子さんの体験が惨すぎます)うやむやにすませてしまうやり方に唖然としてしまいます。一時期のみ隆盛だった日本映画が腐れ切っていてずっと良くならないままなのは当然ですね。

 

良い映画も悪いイメージを持たせて売る。

それで客を釣った気になっているのかもしれませんが、それは映画が良かったからで客がエサに引き寄せられただけではないと思います。

しかも私は男目当てでこのようなエロポスターになっていると思っていたのですがwikiによると「女性の集客」を目指していたのですね。19歳私にはまったく通じていませんでした。

 

そしてやっと観ることになった本作『鬼龍院花子の生涯』はまさしく女性が観るべき映画でした。

ならばなぜあのようなミスリードなポスター・宣伝にしたのか。本当に悔やまれます。

 

さらに今回観なおして本作『鬼龍院花子の生涯』という物語が『赤毛のアン』だということに気づきました。

 

似ている、どころかそのまんまなのです。

 

ネタバレになります。ご注意を。

 

 

 

子供のいない鬼龍院政五郎は妻とつれだって当時の孤児院のような場所を訪れひとりの男児を養子にしようとしますが、その時ついでに松恵という少女(男児の姉)を「一番賢そうだ」と言って一緒に引き取ります。

赤毛のアン』ではマシュウとマリラという独身同士で一緒に暮らす兄妹が孤児院から男児を養子にしようとしますが迎えに行くマシュウの前に女の子(アン)のみが現れマシュウは仕方なくアンをそのまま連れ帰りますがその途中ですっかり気に入ってしまいます。

アンは頭のいい少女で優秀な成績をとりやがて教師になります。「本当は男の子を欲しかったのよね」と謝るアンにマシュウは「この島で一番になったのはお前だよ、アン」と告げるのです。

 

一方、『鬼龍院花子の生涯』では目的だった男児はすぐに家を脱走してしまい、松恵のみが残ります。松恵は頭がよく勉強に励み「女に学問はいらん」という鬼政を説得して進学し教師になります。

さまざまな困難にも立ち向かっていった松恵に年取った鬼政は「わしの目に狂いはなかった。おまえは日本一の娘だ」と告げるのでした。

 

つまり大きなストーリーは一緒なのですね。

男児を欲しかったのに女児を引き取ることになってしまい、その子は懸命に勉強して教師になり父親から「一番だ」と称えられる。

マシュウ・カスバートと鬼龍院政五郎の名前の音も似ている、というのは言い過ぎでしょうか。

あまりにも全く違う作品がこのように似ていることにひとり驚きました。

 

この感想はまだ続けます。