続けます。
先にお断りをしますが、前回松恵が「孤児院からもらわれて」というのは間違いでした。子だくさんの家から弟と一緒に選ばれたのでした。あんまりいっぱいいたので早合点しましたwまさかあんな大人数が兄弟だったとは。「貧乏人の子沢山」で困っている家から鬼政が引き取ったのですが、弟はやくざに恐れて家に戻ってしまうのですが松恵は覚悟を決めた、というのは確かです。
ネタバレですのでご注意を。
そして昨日散々ぼやきましたが下種なミスリードの映画宣伝によって不可解にもエロとバイオレンス作品と思われた本作映画は実は「女性は学問をして自立せねばならない」という内容でした。
実際本作は最初からそういう企画で作られたものだったようで、五社監督はまさしくその通りに見事な女の生きざまを描き、松恵を演じた仙道敦子(子供時代)と夏目雅子によってきりりとした強い美しさが表現されています。
が、あのポスターの「お父さんやめて!もうこれきりにして」という謎コピーで義父鬼政にレイプされ続けてきた娘の話のように思っているかたもおられるようですが、鬼政は侠客で妻以外に妾を平然と囲ってはいても養女をそうした目的で引き取ったわけではないのです。
と言っても結局は松恵を手籠めにしようとはするわけなので所詮ヤクザはヤクザ、ということでしょうか。
この作品のタイトルは『鬼龍院花子の生涯』ですがメインの女性は松恵です。ですが、松恵が主人公でもなくてあくまで主人公は花子の実父、松恵の義父である鬼龍院政五郎、なのですね。
鬼政はまさしく日本の家父長制度の鑑の如き男子であるわけです。強い支配力が彼という男にみなぎっています。従順に仕える美しい妻が女性として嘆いていても幾人もの妾を囲うことを本懐としやっと子供ができた女性だけを特別扱いにしその子が女児であったためにひたすら箱入り娘として甘やかし手なずけます。
松恵は養女であったために鬼政もそうした溺愛は与えず、「女に学問はいらない」と言っても頭を下げて頼む松恵に進学を許したのも養女であったがゆえかもしれません。
強い家父長制の中で溺愛され大事にされた花子はそれゆえになにも判断ができず父に頼るしかない生涯を送るしかありませんでした。
家父長制からずれた位置にいた松恵は幼い時から自分で判断をすることで生き延び学問を続け教師という職を手に入れ夫を失っても父を失っても自立していけるのです。
結局家父長制の中にいる鬼政は思う通りにならない松恵をセックスによって手なずけようとしますが松恵は命がけでそれを拒否します。
それができたのは鬼政の庇護がなくても生きていける力をすでに蓄えていたからだとこの物語は語ります。
なぜならその他の女たちには何もなく鬼政の庇護下でしか生きられなかったから、ということなのです。
手籠めにしようとした松恵が自分の喉を掻き切って死のうとするのを見て鬼政はすんなり手を放して謝罪します。
もちろんだからといって許される行為ではないのですがこの時代、この男のやり方としてはそれ以上ないほどの寛大な男っぷり、ということでしょう。
そして上野千鶴子先生も言われているとおり女性は学問が必要です(男性もですが)
もしかしたら松恵の生家であれば経済的にそれは不可能だったかもしれません。詳細は語られていませんが経済力のあった鬼龍院家の養女になったからこそ松恵は進学できたのかもしれませんしそれをつかみ取ったのも松恵が逃げ出さず且つ素直さと賢さで鬼龍院家の人々、お妾さんや子分さんたちに気に入られ松恵自身もその人たちに好意を持って親しく接することができたからなのですね。松恵を演じたふたりの女性たちの美しさも格別ですが、松恵の人柄の良さがどういうものだったのかの表現に魅力を感じました。
その松恵の人柄を好きになった人々は彼女を助けようとしていくのです。
鬼政の妻・歌は松恵に辛くあたるようでいて実は彼女に自分と同じ一生を歩ませたくなかったからという理由がありました。
お妾さんはけなげな松恵にお駄賃を与えるのですが、素直に大喜びする彼女を可愛く思います。
子分たちは綺麗で賢く自分たちに分け隔てない気持ちを持つ松恵を何事につけ守ろうとしているのが見えます。
こうした鬼龍院という大正時代の侠客一家の表現は今の作品に大きな影響を与えているように思えます。
ヤクザ一家の教師、ヤクザ一家の人気者というと色々なマンガ作品が思い出されますし、子分たちに好かれているしっかり者の女性、というのは宮崎駿氏のアニメを思わせるではありませんか。
昔かたぎの鬼政もやはり一種の強いカリスマでありますし、一方そうした古い伝統から抜け出していく松恵の凛々しさにはもっと大きな希望を感じさせます。
ふたりの対照的なヒロインの描き方にも注目します。
松恵と花子。松と花。
これは日本古事記の木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と石長比売(イワナガヒメ)からの連想ではないかと思われます。
美人だが短命のコノハナサクヤヒメと醜いが不死のイワナガヒメの両方が妻として送られたのにニニギノミコトはサクヤヒメのみを受け取り、イワナガヒメの醜さをきらって送り返した。それゆえに人は短命なのだという話ですね。
ヒロインに「イワ」という名前をつけるのは少々難儀があったのか、同じように長く生きるという意味で華やかさのない「松」を名前に選んだのでしょう。
それにしても日本人は結局イワナガヒメよりもコノハナサクヤヒメをいまでも愛していてイワナガヒメが話題になることはほとんどない、というのは相変わらずということですね。
ま、映画ではコノハナサクヤヒメを意味する花子がとぼけたマスクの女優さんが、イワナガヒメの化身となる松恵のほうに美女優・夏目雅子があてがわれてしまっているのでやや言いにくい部分もあります。
本当は花子に美人女優を松恵は不美人系女優氏を配役すべきだったのかもしれません。
現在ならばそうした配役もできるように思えますね。
上に松恵が学問をして教師となり自立した女性となった姿をあげたかったのですが、思った以上にミスリードな画像のほうが多くてやはり勘違いされそうだと思われました。
話題となった「なめたらいかんぜよ」という決め台詞も鋭い目つきもいつも松恵がそんな極道な生き方をしているというわけではないのです。
つつましく真面目な女性教師として暮らしている松恵には鬼政の娘として鍛えられてきたのだという強い自負心があるのを示した唯一の場面、なのですから松恵がいつもケンカを売ってるような女性だと勘違いされては困ります。
それでもその時代、いや今の時代でも女が学問をして自立して生きるには
「なめたらいかんぜよ」
という強い自負心がなくては男社会に潰され掃き捨てられてしまうのだという意識表示なのです。
強い女として生きるには女の極道がある、のです。
そしてその道を歩めなかったのが『鬼龍院花子の生涯』なのでした。
実父によって「女は男に頼るもの」として育てられた花子は父の手を逃れて男たちの間を彷徨い、「お父さん助けて」という手紙を書いて死ぬ。
何も学んでこなかった花子の悲しい末期です。
強いけどしとやかな松恵ですが、最後は鬼政の娘らしい根性を見せて愛する人の骨を奪い取ってきます。
鬼龍院政五郎は前時代の男であり笑ってしまうほど意気込んでいておかしいし今の基準ではとんでもないモラルで生きましたが、それでも魅入ってしまいます。
それでもその生き方に「出ていけ。あんたたちがこの人を殺した」という松恵の鬼政否定の言葉があるからこそのこの作品だと思っています。
腐りきった人生を送った鬼政と花子が死んでしまい時代は移り変わります。
最後、毅然とした松恵がすっきりとして歩いていく姿にこの作品の思いがあるのです。