ガエル記

散策

『利休』勅使河原宏

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いくつか利休を題材にした映画作品がありますが、一番先に興味を持つのはこれでした。

それはやはり主役利休を三國連太郎が、秀吉を山崎努が演じているというキャスティングにあると思います。他作品は観ていないのですが(たぶん)その点で一歩下がってしまいます。

しかも本作では茶々に山口小夜子が扮しているという特別枠がありまして、これはなかなかの抜擢だったのではないでしょうか。

 

さて肝心のこの映画が描こうとした核心はなんだったのでしょうか。

折りしも先日同じような出来事がありましたね。いえ、きっといつもそういうことは繰り返し行われているのかもしれません。

それは今現在の「新コロナウィルス蔓延」対抗策として不要不急の外出を禁じられひきこもりを要請された人々に向けて俳優で歌手でもあるタレント・星野源さんがネットに自作の弾き語り「うちで踊ろう」をアップして「誰か、この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」と呼びかけたわけです。

これに共感した多くの人々・芸能人がいて盛り上がったわけですが、そこへ日本の総理大臣である安倍晋三氏が参加したわけです。

それはいいのですが、他の方が歌や演奏、またはアニメや踊りなどのコラボだったのに対して安倍首相の態度は「星野さんの弾き語りを自宅でテレビを見ていて最後にリモコンで消すという動作」で示したわけですね。

しかもこの動画を断りも無しに政府が自粛要請に利用した、ことを星野源さんはやんわりと説明されています。

多くの人は星野源さんの表現を大人の対応として賛同しましたがなかには「もっと明確に拒絶と反感の返事をするべきだった」「怒りをあらわすべきだったのにがっかり」という人もいたのです。

私は星野源さんを一番良い反応だよね、偉いね、と思ったのですが、つまりこれだと本作『利休』の「対応はまずかったね」と私は思った、ということになります。

 

つまりは星野源さんは「千利休」ではなかった、ということですし、多くの人が利休を諫めた「りき」(三田佳子)であったのです。

「りき」は利休を尊敬しながらも殿下・豊臣秀吉の無礼な態度を許しきれない利休に「なぜそれほどこだわられますか」「それが生きる術ということではありませんか」と嘆くのですが「ここで一度卑屈になれば一生卑屈のまま生きなければならない」といって自死を選びます。

また秀吉も本妻・寧々に諫められながらも言葉を翻すことができず意地を張り通してしまったのでした、

 

現代のアーティストである星野源さんは含みをたっぷり持たせて首相のとんちんかんで的外れな愚行をさらりと受け流してしまったのですが、もちろんそれは時代が違ってその行為自体で処刑されるわけではないからですが、それでも政府におもねって地位を得ようとする人物もいますし、もしかしたら悪影響だって考えられないわけではないのですから反骨の気概を持っておられることは確かです。

一方、安倍首相の行動は権力者のもっともおぞましい面(私に利用されることは利益につながるのだから嬉しいだろうという驕り)をみせつけてしまったのですが、それにさえ気づいてもいないのかもしれません。

 

多くの人々がこれに反感を持ち良しとしなかったことだけがせめてもの救いでありました。

 

さて『利休』の時代にはそれがかなわず、利休は自分の命と引き換えにしなければその気概を表すことはできませんでした。

秀吉は狂気でしかなかったのだと思います。少なくとも権力者となった秀吉は。

 

映画『利休』はそんなおぞましい人間の業を美しい映像で見せています。

父と兄を処刑した秀吉の妻となり子を生さねばならなかった茶々の心など秀吉は何も考えず、むしろ男の誉れと思っていただけなのでしょう。

そんな惨たらしい性根を持つ秀吉に何の美しさが理解できるでしょうか。

利休は自らの死をもってそれを叩きつけるしかできなかったのです。