『クレしん』でも絶賛されているこちらですが、まったく観ていなかったのでした。
令和の今となっては懐かしむといえば平成になるかもしれませんが、それでもまだまだ昭和の残り香が揺蕩っているのは感じます。少し前、つまり平成時代にはやたらと「昭和を懐かしむ」「あの頃は良かった」という特集があったり『三丁目の夕日』というマンガ(未読です)が話題になったりしていました。
私は昭和38年生まれでいわゆる昭和(つまり『あの頃は良かった』の場合戦前・戦中は含まれないのですよね不思議と)にどっぷりつかって生きてきた世代ですが、あの頃に戻りたいとは微塵も思わないのです。
なぜかというに私(たち)はアニメで散々地球を破壊していく人間ども、という作品ばかり見続けてきて毎日それを苦悩していました。
一大レジャーランドを作るために森を切り開き動物たちを追い出し、しかも人間自身も様々な公害による被害で怖ろしい病気になり苦しんでいる姿を見せられていました。私の子供時代は森永ヒ素ミルク、水俣病、イタイイタイ病、光化学スモッグ、四日市ぜんそく、などといったものに苦しめられ続けていた、という記憶ばかり残っています。あの頃のマンガ、アニメではそういう問題を取り上げているものが多かったのです。小学生時代の私はこの怖ろしい世界を生き抜くことができるのだろうか、ということばかり考えていた気がします。(まあ、何のお役にもたてなかったのですけども)
私にとっての昭和、というのは勿論戦争は経験してませんのでこれらの恐怖との戦いだった気がします。
昭和=公害(自然破壊・病気)でありました。しかもこれらは戦争とは違って「人類の発展のため」という大義名分(戦争も大義名分でやったわけですが)があるわけです。
私は「昭和」というとそうした工場や車などからとめどなく垂れ流される排気ガスや汚染水に満ち満ちた世界、としてしか思い出せません。
イメージは怪獣「ヘドラ」がすべてを表現しています。
ところが「昭和を懐かしむ」人々はどういうわけか、この最も大きかったイメージを見ずにまるでなかったかのように懐かしめてしまうわけです。
それはいったい何故なのか、よくわかりません。
私にとっては「ヘドラ」が強烈すぎたのかもしれません。
さて前置きが長くなってしまいましたが、本作は極めて純粋に「昭和、なにもかも懐かしい」という精神をすべての昭和世代が持っている、という前提において観なければならないのです。
大人の私としては、ここのところが実はとても困難ですが問題解決としては大人ではなく幼稚園児であるしんちゃんたちに共鳴しながら観ていけばなんなく観ていけるのでした。
もしかしたらしんちゃんたちは子供、ではなく私のような「昭和嫌悪者」の戯画なのかもしれません。
昭和、はあまりにも残酷な時代でした。
高度経済成長、のために男たちは猛烈に働き、女たちは家を守ることを強制されていました。それは男女両方ともに歪んだ制度となっていたのです。
その歪みは今も私たちを苦しめています。
実際に先日起きた、大学受験で男子が優先的に選択されるのは成績が良いものから合格すると女子ばかりになってしまうから、という不可解な答えは女性は家庭に入るものであり、男子でなければ長く働かないのだという不安を年配者が抱くのは昭和時代の歪んだ考え方をまったくアップデートしないまま思考していることを意味しています。
こうした考え方を、どうして懐かしめるのでしょうか。
一部の人々はこういう男女の性差に美徳を見ていて「おーモーレツ」というようなセクハラ表現を良しとするのですが私たちはそれにはもう耐えられないのです。
果たして。
本作を作った原恵一監督はどちらに共感して作ったのでしょうか。
しんちゃんの父母であるひろしとみさえはあっという間に20世紀博の暗示にかかってしまい、「くさい臭い」で正気を取り戻したものの何度も再び懐かしさに引き戻されそうになっています。
20世紀博を作った「イエスタディワンスモア」の頭領であるケンがすらりとした見識者で人情もあると描かれて美人の伴侶に慕われていることからも監督は明らかに「昭和を懐かしむ」ケンその人なのではないのでしょうか。
四畳半のアパートで痩せたふたりが愛し合って暮らしている、というイメージに昭和の美徳を感じているだけなら悪くはないのですが、それはほんの表面の小さな部分でしかないように私は思っています。
とは言え、原監督はそうした憧憬はもう終わりにしようと決意して未来はしんちゃんが担うものだと涙したのですね。
とてもセンチメンタルでありながら潔い立派な姿でありました。
「昭和大嫌い人間」の私にもこの作品はすばらしい映画であると思います。