ガエル記

散策

『炎上』市川崑

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三島由紀夫金閣寺』を原作として美剣士で名を馳せていた市川雷蔵がそれまでのイメージを覆す主役を演じました。

再鑑賞です。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

1958年製作映画ですが今観ても遜色ない表現で違和感を覚えません。

一種の障害を苦痛として暗闇の世界へ入っていく様子は先日観た『ジョーカー』とも重なる感覚でした。

市川雷蔵が演じるのは吃音に悩む仏門の学生・溝口です。貧しい寺の一人息子で父は既に他界し、母親の期待を背負っています。

溝口の父は「驟閣寺ほど美しいものはない」と息子に言い聞かせていました。

 

溝口、と名付けられた仏門の学生は三島由紀夫の創作ではなく実存した人物です。名前は変えられていますが、その生い立ちや吃音であるという特性、そして美しい金閣寺に放火した、という事件が三島の感覚に触れたのでしょう。

共感する父親と驟閣寺(金閣寺)を理想とした溝口は彼のおじに当たる男と肉体関係を持ちながら息子に倫理を説く母親に強い嫌悪感を持っています。

美を追求する三島由紀夫は同じように美しいものに憧れながら吃音という表現がままならぬ肉体を与えられ理想とする父を火葬したように金閣寺を燃えがらせたこの学生に共感したことでしょう。

 

映画は非常に美しい陰影のあるモノクロームで一人の学生の苦悩を描いています。

幾つか原作とは描写が違うのですが、最も差異があるのはラストです。

映画では逮捕された溝口は連行中の列車から身を投じて死んでしまいます。実際の彼は手持ちのナイフで切腹を計るのですが死にきれず治療を受けて刑期に服し26歳で病死と書かれています。(彼の母親が列車から飛び降り自殺しています)

しかし三島由紀夫の小説では彼はナイフを投げ捨てタバコを吸って「生きよう」と思うところで終わっています。

何故三島は彼を死なせなかったのでしょうか。

そしてこの描写がより一層映画『ジョーカー』と重なってしまいます。

映画はすばらしい出来栄えと思いますが、この最期の場面においてやはり三島由紀夫の筆致に分配が上がるものではないでしょうか。

(事実でも死にきれなかったのに映画はどうして自殺で処理してしまったのか。やや残念です)

 

本作『炎上』でもうひとつの見どころは溝口の悪友ともいうべき戸狩の存在です。三島原作では柏木という名前ですが内反足という障害を持ちながら幾人もの女性と関係を持ち尺八を嗜み哲学的な考えを溝口に語る不気味な男でもあります。溝口は彼から金を借りますが返済が滞っていると老師に告げ口されてしまいます。老師が払ってくれたのが元金のみだったので、溝口は老師からもらった学費を戸狩からの借金の利子として払う、ということで老師への反逆を示します。

この戸狩を演じたのが仲代達矢なのですが、雷蔵を越える凄まじい怪演でありました。