いつものことだけど「世紀のスクープ」という付け加えられた副題は的外れで馬鹿々々しい。
日本の映画界としてはこの映画のテーマが「世紀のスクープ」に騒ぐ報道と認識しているのだ、と認識していいわけですね。
このことは現在も日本社会で叫び続けられる性虐待、性暴行への告発、批判に対する的外れな反論からも推察できます。
この映画は日本ではほとんど話題になることがありませんでした。
カソリック協会の神父による特に児童への性虐待、がテーマなのでもなくそうした大スクープを勝ち取ったというのがテーマなのでもなく自分たちの社会で不正が行われる時、そしてその被害者が弱者である場合は特に何事もなかったとされてしまってきた歴史を改めようとする人々の真摯な意識と行動が描かれているのです。
ですからこの映画の中で神父が児童に性虐待を行っている場面は描写されません。
日本映画でも海外の映画でもこうした告発作品ではその場面を挿入することでその「虐待場面」を観たいという人々の欲望を引き出すことも往々にしてありましたし、無論逆にその場面がとても観ていられないという人々もあったわけですが、本作にはそうした映像はないのです。
だいたい新聞記者が被害者から話を聞く、という映画なのですからそうした記憶が映像で出てくる必要はないのですが、今までの映画ではよくあった演出でした。
また特定の神父のみを吊るし上げることもありません。
記者たち自身もカソリック教会とは結びつきが深い、つまり密接な地元の教会だからこそこうした不正が隠されていたことに衝撃を感じているのです。
なぜこの映画は日本では話題にならなかったのでしょうか。
この映画の題材自体にもしかしたら反感を持っているのではないのでしょうか。もしかしたら日本人の多くは「大げさに騒がずそっとしていた方がいいのではないか」と考えているように思えてなりません。
そしてこれはアメリカ人のことだから、と納得し「日本人は日本人の考えがある」とうそぶいているような気がしてならないのです。
自分たちに密接なつながりがある社会だからこそ誰もが幸福になれる道を探さねばならないのに日本社会では「みんなの幸福のためにあなたは我慢して」という声がたえず聞こえてくるのはどうしてなのでしょうか。
ひとりの神父に虐待を問いかける場面があります。
神父は「確かにちょっと触ったけど私に快感はなかった。そこが大切な問題だ。」と答えます。
被害を受けた児童がどう思ったのかは彼はまったく問題視していない、のです。
性虐待の加害者が被害者を人間として見ていない、ことが表現されています。
映画は多くのヒーロー・ヒロインを描き出してきました。
本作はこうした問題に取り組む人々、そしてその人々を英雄として描く映画作品です。