ガエル記

散策

求めるのはヒーローなのです

最近ちょこっと考えてみたことを書きます。

いろいろな作家(小説・マンガ・映画など問わず)の中でも特別に話題になる人とそうでもない人がいます。

例えば素晴らしい実力があり面白い作品を書いている(作っている)のにさほど注目を集めない人と、それほどでもないのに過剰に人気がある人。

その違いはどこから生まれてしまうのか、ということを考えてみました。

 

まず、人は事実の報道だけではなく創作の物語をとても欲しがります。それは何故なのでしょうか。

偽りの報道を聞かせられることには憤慨しても想像の物語が無いのはとても味気ないものだと思うのです。これは面白い価値観ですね。

 

そしてその創作物語は主人公を必要とします。それはありふれた人物である場合や嫌悪すべき人物である場合もありますが、特別に魅力を感じる人物である場合人は彼(彼女)をヒーロー(ヒロイン)と呼んで愛してしまいます。

ですから人が優れた物語ーそれが小説・マンガ・アニメ・映画・演劇なんであってもーに強く求める対象は自分が夢中になれるヒーロー&ヒロインなのです。

もちろんそれは架空の存在であって実在してはいないのです。むしろ実在しないからこそ人は自分をそれに当てはめてぞっこん惚れ込んでしまえるのかもしれません。

その対象は人によって違うでしょう。

見かけが美しい者、逆に傷を負った者、頭脳明晰な者、力が強い者、心優しき者、自己を犠牲にして皆を助ける者、富や名声を勝ち得た者、そうした様々なヒーローの中で多くの支持を集めたものが「人気者」になるわけです。

 

さて、そういうことは判っているのですから如何に「ヒーロー=魅力的な主人公」を生み出すかが創作物の人気、つまり売り上げの鍵になるわけです。

こうした人気者を最も多く作ってきたのが日本では「マンガ」であるのは誰も反対しないでしょう。

小説と違って最初からビジュアルで人を惹きつけアクション他との関係も判りやすいのでより一層ヒーローを強烈に感じ取ることができます。

またシリーズ化して長く読ませていけばさらに読者は愛情を深くしていくのです。

 

姿が見えない小説であっても優れた作者によれば偉大なヒーローが生まれていきます。

人気作家になること、愛される作品を書くためには読者を惹きつけ敬愛される主人公をどれほど作り上げる能力があるか、が最も重要なのです。

 

ここで冒頭の答えに導かれます。

物語は面白く描写もうまいのにさほど騒がれない人の多くはこうした「ヒーロー」を生み出していない作家ではないでしょうか。

逆にさほど内容がなくても「ヒーロー」に魅力があるとつい読んでしまう、観てしまうという現象が起きてしまいます。

 

例えていえば横溝正史松本清張

どちらが凄い才能か、というのは読者それぞれの好みかもしれません。

(私はどちらも現在好きですが、能力的には清張と言って過言ではないでしょう)

が、話題になりやすいのはどうしても横溝正史でしょう。

というのはやはり「金田一耕助」という有名キャラを生み出してしまったからです。

どちらの作家も映画やドラマになっていますし松本清張の取り上げられ方は物凄いのですがなぜか彼の作品はヒーローを出さなかったのですね。もし松本清張金田一のようなキャラを作っていたらもっと凄かったのでは、と思えてなりません。

 

マンガで思うのは高野文子さんなのですが、彼女ほどの実力がある作家はいない、とさえ思っているのですが彼女もまたヒーロー(ヒロイン)を作ってこなかった、のですね。「るきさん」はもっともそれに近かったのでしょうが、もうひとつインパクトが足らなかったのでしょう。

萩尾望都氏もそれになるのでしょうか。もっともヒーロー的存在はエドガー・ポーツネル。レッド・星も挙げたいのですがミーハー的要素が足りなかった、ということになるのでしょうか。

 

少年マンガのヒーローをあげて行ったらキリがありません。

あえていうなら手塚治虫氏は物語性も高い上に個性的で魅力あるヒーローを数多く生むことができた作家でした。

 

アニメ作家の多くは技術は優れていてもこの「ヒーローを作る」ことが非常に苦手だと思っています。そんな中でやはり有名になれるのはヒーローを作ることができた作家、宮崎駿富野由悠季、ということになるのでしょう。

それを思うと新海誠はまだ物足りないのかも、と私には思えます。

ヒーローを作らない作家、のひとりなのかもしれませんが。