相変わらず邦題の酷さはすさまじいのですが、内容は思いがけず晴らしいものでした。
監督の名前が聞きなれないラテン方面なので検索したらチリ出身ということで納得しました。偏見になってしまいますが、映画の雰囲気が南米映画によくある情感にあふれたものなのでそうであろうと予想してはいたのですが。
アメリカ映画の方程式であるアングロサクソン的な理詰めの演出とは違う南米方向の映画演出はこうした感情に訴えるものが多い、と私は思っているのですがアメリカ・イギリス式(それが好きではあるのですが)とは根っこから異なったラテンの表現は心を揺さぶられるものがあると感じます。
例えばこの数年ハリウッドを席巻しアカデミー賞を奪いまくっているメキシコ監督軍団のそれを思い出してください。
本作はアメリカ大統領である夫を暗殺というアクシデントで失ったまだ若い一人の女性の感情のみに寄り添った物語になっています。
作品中でも何度も語られているようにそれはアメリカという歴史の浅い国の若きリーダーの死、というよりは若き美貌の君主の討ち死にを弔う同じく若き美貌の王妃のタペストリーとして映し出されているようでした。
長い歴史と伝統に守られた古き王国の葬儀とは異なりアメリカの妃は自分でなにもかも決意していかねばなりません。
アーサー王のキャメロットを好んでいたというジャック=ジョン・f・ケネディの葬儀を彼女はそれに見合う荘厳な最後の儀式にしたかったのでしょう。
彼女は誰にも頼ることができないのです。
孤独な王妃としてパブロ・ララインはジャッキーを描きました。
(今気づいたのですが、彼らはジャックとジャッキーだったのですね)
それはアメリカ人であればあまり考えない手法のようにも思えます。
ナタリー・ポートマンはみごとに演じ切っていました。
ロバート・ケネディの彼をどこかで観たと思っていましたが『17歳の肖像』の彼でしたね。ピーター・サースガード、変わらないイケメンぶりでした。
神父との対話が鍵となっているのもラテン的に思えます。
物語が一人の記者との会話として描かれる、という手法はとても好きなものです。