ガエル記

散策

『チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛』ジャスティン・チャドウィック

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この映画を観たほとんどすべての人が同じ感想を抱くのではないかと思います。それは

「外見がやたら素晴らしいのに中身がない」

美術・衣装・背景がとてつもなく凝っていて(つまりお金がかかっている)映像が素晴らしい美しさなのに反比例してストーリーはまるきり骨格の無いぐにゃぐにゃすかすかした何かなのです。

 

ネタバレですのでご注意を。

 

 

原作が「フェルメールの絵画をから着想を得て作り出されたもの」という事らしいのですが、それゆえにか(脚本が原作をそのまま取り入れているのだとすれば、ですが)あまりにも考えて作り上げていった感がにじみ出てゴタゴタしすぎているのです。

途中まではそれほどでもないのですが後半加速度つきで登場人物の人生が翻弄されていきます。

確かにオランダのチューリップフィーバーの時期には人生を狂わせた人が多くいたという物語かもしれませんが物語としてその決着に意味があるのでしょうか。

まず観る者は主人公ソフィアに共感して見ていくものです。

孤児院にいた彼女は裕福な老人(と言っていいでしょう)から子供を産む道具として金で買われてその仕事を全うしなければならない、という運命にあります。

当時としてそれはむしろ幸福だったのかわかりませんが現在の感覚とすればもちろん惨めで不幸なのです。その老人が妊娠の目的のみの性交を彼女に求めていることをソフィアが良しとしているのなら別にいいのですが映像として彼女が反感を持っていることを示しながら後に彼女が貧乏画家と恋に落ち折よく妊娠していた女中と結託してとんでもない計略を練る部分はむしろ面白くすらあったのですが上手くいった後で彼女が突然罪の意識を持ってしまい尼僧になってしまうというオチは「自殺してなくてよかった」という感慨ですませられてはかなわない気がします。

女中はがんばったための健闘賞とも言うべきご主人の財産をいただいてしまうのは都合よすぎとは言え良いとして、今までの行いを反省し旅に出たかのような老人主人は良いとして、不倫相手の貧乏画家はいったんはとんでもなく追い詰められたのに一段落するとすっかり人気画家に成長しているのは良いとしてもソフィアは自殺という運命を免れて修道女になる、という筋書きだったのは「子供を産む道具」の末路がこれですかい、という気になってしまいます。

画家とソフィアが最後互いの存在を認め合うという場面があるのでその後ふたりは、という希望を持たせた、というのかもしれませんが、「子供を産む道具として買われた少女」の運命の物語が本筋のはずなのにどうにも納得がいきません。

また主役ソフィアを演じたアリシア・アマンダ・ヴィカンダルが綺麗なのですがフェルメールの絵画のよう、というにはやや違うようにも思えます。まあ本作がフェルメールの絵画に似てなければならない、わけではないのですが。

 

ここまで非常に美しい映像で魅了されながら、そのテーマや物語には、なんの共感も発見も驚きもないという虚しい映画でした。

せめて主人公をソフィアではなく女中にすればよかったのです。そうして「牛乳を注ぐ女」をポスターにすればよかったのですが悲しいかなどうしても「美しい貴婦人」をポスターにしたいためにテーマと物語がガタガタになってしまいました。

映画も結局は女中さんが最後を決めていたのですが、なぜ「牛乳を注ぐ女」のほうを選べなかったのでしょうね。残念です。