高橋源一郎「飛ぶ教室」というNHKラジオ番組の第一回目を機会があって聞いたのですが、その内容にスルー出来ない感覚があったのでここで書いてみようと思います。
番組内容は「植草甚一の生き方」について、で後半から番組のテーマ作曲家でもあるという菊地成孔さんがゲストで登場されました。
聞き返すのが辛いのでできるだけ聴いた記憶で書いていきますが高橋源一郎さんはこの植草甚一さんを「悪いおじさん」の理想であり代表だと褒め、今の時代にこそ「悪いおじさん」が必要なのだと訴えておられました。
植草甚一さんが今現在どのくらい認知されているか判らないのですが(とりあえずアマゾンで本は購入できそうです)とはいえそれほど再び話題になった気はしません。
いやだからこそかつて大人気だった(一部でだとは思いますが)あのかたを再び蘇らせたい、もう少し言えば自分の呼びかけで話題にしたい、と思われたのかもしれません。
私自身、二十歳頃かなり読み漁って「植草は良いね」とマイフェイバリットにしていた時期がありました(その時はもう植草さん自身は亡くなられていたと思います)
大好きな外国の映画を観て外国の音楽を聴き、古本屋を巡って好きな本を探す、そんな自由で楽しい趣味を持つおじさんに確かに憧れていたのでした。私にとっての植草甚一はそれだけの記憶で、それは良い思い出でした。
ただ高橋源一郎さんが提唱しているのは単なる古本趣味と言うだけでない「悪いおじさんのススメ」なのです。
高橋氏は「今の時代は息苦しい」と言います。その息苦しさが何なのか具体的な話がなかったのが気になるのですが、「ネットでもなんでも何か気に障ることがあると、あれはダメ、これはいけない、とみんなが騒ぎますよね。そんな時悪いおじさんがいてくれたらなあと思う」というのです。
氏にとって「悪いおじさんはそれはダメだなんて言わないでそういう考え方もあるよね、と言ってくれる人なんですよ」ということらしい。
この時アナウンサー女性が「つまりコロナで外出できない、って文句ばかり言ってる人にってことですか?」とわざとなのかトンチンカンな質問をすると高橋氏は「そう。コロナで外出できない時も部屋の中で好きな本を読んで楽しもうぜ、と言ってくれる」と返したのですが勿論高橋氏の言う「ネットでの息苦しい発言」というのがそんなことじゃないのは文脈から伝わってきます。
高橋氏が言うには「植草さんは自由人でとことんまで遊んだ人でね、タマが一個無くなった、というくらいの方なんですよ、奥さんはずっとほったらかしにされてしまって一緒にお墓には入りたくない、と怒ったんですね」
これが氏の憧れる「悪いおじさん」の生き方、ということなのでしょうか。
高橋氏は「悪いおじさんの条件は社会の規則に縛られない自由な生き方をしている、結婚はしてない、かせめて子供はいない。趣味の世界に生きていて奔放な恋愛を楽しんでいる。正義を語ったりせず人を許してくれる」と定義されているようでした。
私が聞いている分には特にこの「自由な恋愛を楽しんでいる」という箇所に重きがあるのでしょう。だから植草さんが遊びすぎてタマが一個無くなってしまった、とまで話したのです。
氏は続けます。
「昔はお父さんが厳しくてね。少年はお父さんからいつもがみがみ怒られてしまうのだけどそこに登場するのが悪いおじさんなわけ、悪いおじさんは少年を怒ったりしない、逆に面白い本や音楽を教えてくれてもっと楽しく暮らしていいんだと言ってくれるんだ
私は聞いていてもやもやとするものがありましたが最後まで聞いていました。その最後に高橋氏はこう語り出しました。その声は嬉しそうで満足そうにも聞こえました。
「実はぼく、そんな悪いおじさんの小説を書いたことがあるんですよ。少年は父親の厳しい躾けに参って悪いおじさんに憧れている。それで悪いおじさんが少年にじゃ、おじさんと一緒に自由な旅に出ようか、というと少年はためらった後首を振って、いやぼくはおじさんとは行けない、と答えるんだ。悪いおじさんが去った後少年の横に厳しい父親が立っていて、お父さんも若い頃おじさんのような生き方に憧れていたんだよ」
なんじゃ、こりゃああああああ!!!!!
つまり高橋源一郎氏は「悪いおじさん」に憧れながらも決してそうはならない道を選んでいるのです。
自分は優等生の道を歩きながら他人には「悪いおじさん」が必要だよ、と勧めているのです。
確かに、高橋氏は自分は結婚もして子供もいるのです。作家として名を成してNHKのテレビやラジオにも出演できるほどの人格者として認められているわけです。何もかも手に入れた人なのです。
自身はそうした安全と幸せが確立した上に立って「今息苦しいよ。悪いおじさんが必要だよ。悪いおじさんになろうよお」と呼びかけています。
女遊びをして反社会的存在になって趣味に生きる、そんな悪いおじさんになるのは果たして楽しいことでしょうか。
楽しい瞬間もあるでしょうがそのためには人生を破壊してしまう犠牲を覚悟しなければなりません。
だからこそ高橋氏本人もそうならない道を選んだはずです。
かつてはそうした「悪いおじさん」が多くいたのでしょう。しかし氏も残念がっているようにそんな「悪いおじさん」は少なくなったのです。なぜならその道は厳しく険しいからです。
厳しいいお父さんには息子がいて、「悪いおじさん」に息子はいてはならない、と高橋源一郎氏は定義づけています。
そのご自身は子供がいる。もしかしたら子供がいることを後悔されているのかもしれませんがそうだとしたら随分冷酷な心理です。
でなければ「自分は子供がいるという幸福を手に入れるけど、他の男は子供という幸福を捨てて悪いおじさんという役割をやってよ。オレは嫌だけど」ということなのでしょうか。
結婚もせず子供もあきらめ趣味だけに生きて社会から見放された男になれ、と勧めるご本人がそれらすべてを手に入れておられる、というのはどういうわけなのでしょうか。
多少は悪いおじさん的なことをされたのかもしれませんが、社会的地位は手放さなかったというわけですね。
「悪いおじさん(反社会性)てかっこいいよお」と言い、自分もそうするふりをしているのかもしれませんが危ないところで安全圏に戻って人格者としてNHK番組で仕事をしている。
卑怯、ではありませんか。
川本三郎著『マイ・バックページ』(と記憶していますが)のなかにこんなエピソードがあります。
筆者が念願の雑誌記者になってある少年に出会います。その少年はが学校にも行かず可愛いガールフレンドと社会の規範に縛れらない自由奔放な生き方をしているのですが、若き筆者はその少年の生きざまに「まさに現代の自由な魂」を感じてその少年の青春の賛歌を記事として自信満々に書き上げます。
その後一人の主婦(だったと思うのですが)から記事に対する手紙が送られてきます。
「あなたは学校へも行かず女の子と自由に生きている少年を賛美していますが、果たしてその男の子は幸せな生活を送れるのでしょうか。その子が私の子供なら私は決してそんな生活には反対します。あなたは一流企業に勤めたぶん一流の大学を出ているのでしょう。高みから眺めてその子を褒めるのは良いのですが、その子はいったいどうなってしまうのでしょうか」
筆者はそれを読んで愕然とします。その後少年の様子を訪ねていくと果たして少年はガールフレンドを妊娠させたものの責任がとれないままどこかへ行ってしまった、という顛末だったと記憶しています。
私自身若い頃、今だって「自由奔放な生き方」という言葉に憧れます。だけどそこにどれほどの規則を決めていくかで人生は変わってしまうのです。
少し前大好きな甲本ヒロトが松重豊の番組に出て話しているのを聞いたのですが「ヒロトは、若い時から悪いことを絶対しなかったねー」「うん、変なことをしてしまって音楽をやれなくなってしまうのだけはいやだったんだ」
私はこれに凄く感動してしまって、というのは私はヒロトをずっと好きだったのですが一度も悪い噂を聞いたことがないし、偉いなあと思っていたのですがそれは偶然ではなく若い時から「変なことをしたらいけない」と自分に課していたのだ、と驚いたからです。
パンクロック、といういかにも反社会的な音楽をやっててでもその音楽を続けるには「悪いこと」はしちゃいけない。ヒロトの生き方こそ私は望むべき生き方だと思っています。
高橋源一郎さんが言う「今息苦しいことばかり」と言うソレはいったいなんのことでしょうか。
私が勝手に憶測するのは「不倫報道がどうの」とか「女性差別がどうの」「セクハラがどうの」ということなのじゃないかということです。
つまり植草さんが遊びすぎてタマが一個無くなり奥さんが人生を棒に振ったと嘆いたことを笑いながら話していたからの連想ですが。
しかしそうした「息苦しい発言」があるのはそれで苦しんでいる人たちが多くいるからであってそうした不満はかつては言えなかったからです。
匿名で発言できるネット社会だからこそそうした不満が爆発してしまったわけで、それらの爆発は爆弾がなくならない限り続くに決まっています。
植草甚一がかつては(私自身にとっても)憧れの人であっても時代は移りました。今高橋氏が無理に「悪いおじさん代表」として蘇生させても妻の人生を犠牲にしたという自由な悪は多くの人には受け入れられないのです。
植草氏が忘れ去られた、ということがそれをすでに表しています。
「膨大な知識を持った凄い人だったのに何故」と悔やんでも高橋氏本人がすでにその答えを言っていました。
「今でいう検索みたいだったんだよ、アメリカで流行っている音楽は?」と聞くとさっと答えてくれるんだ」
つまり今はもうグーグルがあるから彼は要らないのですね。
今は膨大な知識よりも大切なことを教えてくれる知恵が求められているのではないでしょうか。
私は植草氏の本を図書館でかなりの数借りて読んだのですが結局気に入って購入したものは一冊もありませんでした。これは手元に置いてずっと読み返したいという本はたくさん買っていますが植草氏はそれがなかったのです。
高橋氏が「悪いおじさん」の例のひとりにあげた伊丹十三はそういう読み返したいなにかを感じたので幾冊も買ってもっています。
私はこの番組で単なる古本大好きおじさんとしてステキな人だったと思っていた植草氏が実は人間として最低の人格だったと知らされてがっくりしてしまいました。
そうした人格を「今求められている悪いおじさん」と賛美して復活を願っている高橋源一郎氏の思想も知ってがっくりしています。
NHK番組担当というきわめて社会的な地位に座りながら反社会的悪いおじさんを求めるのはさぞ気持ちの良い仕事なのでしょう。
「悪いおじさんは」妻からも嫌われ子供もなく孤独に死んでいかれたようです。それも彼が求めたことでそういう生き方もあるでしょうけど、その人生を他人に要求するのはおかしいと思います。自分でなさったらどうですか?
疑問に対してさまざまな言い訳はできる番組内容でありましたが、それを含めて
「卑怯」
と思います。
また「悪いおじさん」のひとりに「橋本治」さんの名前を挙げた時にゲストの人が
「あの人は悪いおばさん、だから」
といって高橋氏も一緒に笑ったことにも抗議します。
息苦しいですね。
「悪いおじさん」なら「そういう考えもあるよ」と許してくれるでしょう。