ガエル記

散策

『ディリリとパリの時間旅行』ミッシェル・オスロ

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とても一言では言い表せない美しさと感動を描き出したアニメ作品でしたが同時にやりきれない悲しみも感じられました。

多くの人々、特に「普通の日本人たち」に観てもらいたい作品です。

 

以下ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

アニメの美しさはもう観ていただくしかないものです。

シンプルなキャラクター造形と彩色でありながらなぜこんなに目を惹きつけるのか不思議です。アニメーション、つまり動きも個性的ですが特殊というわけではないのに魅力的です。オスロ監督の『キリクと魔女』でも見入ってしまった小さな子供の手足の早い動作はいつも可愛らしくて思わず微笑んでしまうものです。

実写と重ね合わせてのアニメだったので最初は戸惑いましたが本作ではそれが素晴らしい効果をあげるものになっていました。

 

題材と物語については語りたいことが溢れてきてどうしようもなくなりますが落ち着いて少しずつ書いていきましょう。

 

本作は2018年公開のものですがちょうど今も様々な国で問題になっている「人種差別」が題材のひとつになっています。

主人公ディリリはその頃両親がいないので詳しくはわからないのですがニューカレドニアの生まれながら肌の色が明るい、ということで当地で差別されてきました。

たぶん片親がフランス人ではないかとディリリは言うのですが、そのために皮膚の色がニューカレドニア人にしては薄くフランス人としては濃いわけです。そしてたどり着いたフランスでは白人たちの見世物として働き「色が黒い」「サルめ」などと蔑まれてしまうのですが小さなディリリはフランス語も達者で行儀作法が立派で感心してしまいます。

見世物になっていた場所でフランスの少年オレルとディリリは出会います。

本作で活躍するもうひとりがカルメン歌手で名高いエマ・カルヴェです。彼女のお抱え運転士であるルブフがディリリを侮蔑するのをオレルは咎めます。そしてそのことを聞いたエマは彼女に謝罪します。

「大丈夫」というディリリに「嫌な言葉は少しずつ心を蝕んでいくわ」といって彼女を抱擁するのです。

抱擁を初めて知ったディリリはその感触が心をいたわることに気づくのでした。

 

折りしも今ツイッターで日本で生まれ育ち活躍する女性が

「違う人種であり違う国籍のくせに日本人感を出すな!」

という不可解にもおぞましい迫害を受けているのを目の当たりにしているところでした。

中野信子氏の教えで「弱い人間たちはそうやって(少しでも違う人を阻害することで)本能的に自分たちを守ってきた」のはわかりますが思考する頭脳を持っているのなら自分たちの言葉がいかに醜いものかよく考えて欲しいものです。

彼らによると「日本を悪くいうもの、日本人じゃない人間はこの国から出ていけ」であり「自分は普通の日本人」なのですが私としては普通の日本人はもっと賢く優しい人種であって欲しいですし、そんなことをいう「自称・普通の日本人」という輩こそあまりにも醜悪で自国及び他国からもそんな「自称・普通の日本人」を知られるのが恥ずかしいのです。

『ディリリ』の中でもそうした人種差別主義者たちにうんざりしますがいったいこういう人たちはこうした映画などを観ないのでしょうか。それとも観ても自分は違うと思うのでしょうか。どうやらこっちのようなので困ります。いつか気づいてもらえる日がくるのでしょうか。

 

次に本作の物語の主軸になっている題材「女性差別」です。

本作ではパリで次々とまだ幼い少女が誘拐されていく、ということが問題になっています。ディリリ自身がまだ幼い少女でありながらこの問題に取り組み少女たちを救おうと決心します。オレルとエマ、そして最初はディリリを侮蔑したルブフも目覚めて少女誘拐をしている「男性支配団」のアジトをつきとめ誘拐されている小さな少女たちを救おうと立ち上がるのです。

 

この「男性支配団」というのは当時男性と平等の地位を得つつあり活躍している女性たちに不満を持つ男性たちによって組織されたものでした。

すでに彼らは大人の女性たちを「椅子」として使用することで元の男尊女卑社会を復興していく計画を実行していたのですが、すでに男女平等を学習してしまった成人女性を「椅子」にして四つん這い歩行をさせていく計画は難航していたためまだ幼い少女たちを「椅子」として教育しようと誘拐を繰り返しその協力をした男性には「男性支配団」の象徴である「鼻輪」を与えていたのです。

男性と平等となった女性への憎悪、成人女性を制御するのは困難なので幼い少女を飼育するという考え方。そしてその思考と行為を「女性を椅子にする」「女性の歩行は四つん這いのみ」という表現にしたオスロ監督の感性は怖ろしいほど的確に思えます。

そして少女たちがその飼育から逃れるには排泄物が流れている下水に身を浸して逃げるしかないのです。

これらの表現は様々な比喩を感じるでしょう。

ヨーロッパで長い間蔓延していたコルセットは女性の胴体をきつく締めあげそのために骨格と臓器は歪められ時に女性は気絶してしまいます。長いドレス、他所を見られなくなる帽子など女性たちの行動は常に制限されてきました。

(余談になりますがかつて中国で行われた纏足はより女性を椅子化したものですね)

男性支配団が女性に言う言葉「男性の顔を見るな。余計なことを話すな」なども男尊女卑を端的に表現しています。

アトウッド『侍女の物語』でも同じ命令が下されていました。

逃げ出すためには下水に飛び込まなくてはならない、というのは女性がそうした男尊女卑社会から逃げ出すにはそうした覚悟が必要だった、ということでしょう。

とはいえそれは決められた結婚生活から逃げるならば売春しか女性の仕事はない、というようなものだったはずです。それは無論下水のようなものだということです。

 

これはいまだに男尊女卑で苦しむ日本社会では身につまされる題材です。

人種差別問題同様にネットでも声を上げた女性たちに「椅子になれ」と言い続ける男性たちは絶えません。

 

どちらにしても本当の幸福とはなんなのか、人種であれ性であれ自分とは違う人を差別し蔑むことで得られるものは幸福ではないはずです。

 

ディリリたちは虐待されていた少女たちを大活躍で救い出しました。男性支配団は崩れ去りました。

それでもディリリはまだ孤独である寂しさから完全に救い出されたわけではありません。彼女にはまだ皮膚の色、人種と国籍という問題がそのまま残っています。

オレル、エマ、ルブフはそんなディリリを囲み「きみは孤独ではないよ」と励まします。

ディリリはその抱擁を受け入れながら人生はまだまだこれからだと微笑んで物語は終わります。

 

素晴らしい物語でした。

これほど難しい問題を主題にしてこれほどの表現ができるでしょうか。

 

ディリリとオレルの出会いの場面

「きみのことをもっと知りたいな」

このことが大切なのです。

 

まだまだ語りたいことがありますが、今回はここまで。

次回は本作で悲しい思いもしたことを書きます。