ガエル記

散策

『影裏』大友啓史 その2

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北の大地と書いて岩手県ということでいいのだろうか?

 

原作は沼田真佑氏によって書かれた素晴らしい小説ですが、映画は大友啓史監督によってその価値は非常に歪められてしまいました。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

松田龍平綾野剛そして父親役に國村隼という優れた俳優を配役できたのに残念です。

とはいえ映画化を知った時は良いと思った松田龍平が映画で見るとややその魅力を欠いているようでした。これは彼自身のせいというよりも監督の演出のまずさではないかと思います。

綾野剛に至ってはもともと原作小説の解釈が私とは根本的に違うのです。

一人称で語られる今野の印象は映画のような「内気でちょっと女っぽい感じ」ではなく物静かではあるけれどむしろ男っぽさを感じさせるものでした。

映画では見るからに女性的な今野が奔放な日浅に引き寄せられていく様子がありありと描かれていきます。小説ではここまで露骨な表現はないのです。仕事中に目隠しをして「だーれだ」なんていう必要はあったのでしょうか。

出だしも小説どおりに森の中を歩くふたりの場面からのほうが印象的で良かったはずなのになぜ地味な仕事場からにしたのかがわかりません。

構成自体がとんでもなくめちゃくちゃで良いところがないのです。

そして今野の日浅への同性愛描写が一つ一つ未熟でありきたりなのです。

今野の部屋にビアズレーのサロメの絵が飾られているのなど手塚治虫『MW』を連想させたかったのでしょうか。

今野が日浅にキスを迫る場面などがっくりしました。そのあと何事もなかったかのような日浅の態度も奇妙です。

 

映画ではセールスマンになった日浅が今野に「一口買ってくれないか」という場面も原作と映画ではかなり印象が違うのです。

映画では今野が立場の弱さを感じてためらっていますが小説ではむしろ日浅に気を遣わせたなと思いやるのです。

この男っぽさが映画ではすっかりなくなってしまっているのですね。

原作は女性で映画は男性なのにどうしたものでしょうか。

(いや、思いやりは男っぽさじゃないだろう、ということは言えますが)

 

 

続きます。