ガエル記

散策

『影裏』大友啓史 その3

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映画化を聞いてこの画像を見た時は期待しました。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

なんといってもこの映画作品を良しとできないのはそれ自体が同性愛を表面的にしか描いていないからです。

先日も書いたように大友監督は原作にはないセリフ「ものごとの表面だけを見ちゃいけないってことよ。見るのは一番深い影の部分だ」(おおよそですが)を日浅自身に言わせています。

これは物語の核心を表現していてこのセリフを言葉で言ってしまうのなら正直映画はいらないんですね。つまり『影裏』なんですから。

そして日浅の『影裏』は表面的には人好きのする社交的な男なのにその影裏は人を騙して生きてきた嫌悪すべき男なのです。

しかし日浅に対する今野の心理は映画と小説では真逆ほど違っています。

映画での今野は日浅に同性愛を臆病に求めはねつけられ震災で死んでしまったと聞いてその面影を釣りの中で求めている、という風情です。しかもどういうことか?原作にはない別の恋人ができて週末に彼の両親に会う約束をしています。どうやらこの世界の日本ではゲイがオープンのようです。(なぜ急にそういうことになったのか?それならばもともと今野が内気の意味がない)

小説での今野は女性から男性への人生を進むことを決意した人物です。かつて結婚も考えた男性は今は性別適合手術を受けて女性になっていますが今野は小説の作法からしてそうした手術は受けていないのでは、と考えています。見落としているかもしれませんがもし受けているのならそうした意味合いの文章がどこかに隠されていると思うのですが(例えば「わたしも彼に従って・・・」とか)私は見つけきれませんでした。

 

今野が元女性だけど男性として岩手県で新たな人生を始める、というのはちょっとした物語が必要となります。

彼は同じ職場の転勤ということなので女性が男性として転勤というのは困難かもしれませんが何かしらの作為があって男性としての転勤に頼むことができたのか、東京でも男性として過ごしていたのかもしれません。あるいは名前が今野秋一なので単純に男性と思われていた、というだけなのかもしれません。

 

今野は男性を性的対象とする男性なので女性になってしまった元恋人・副島とは別れてしまったのです。

体自体は女性でもある今野は一般的なゲイとは違って性的な付き合いは限られてくるでしょう。

とはいえ映画での今野は極端に内気で控えめな感じで日浅に対してもびくびくしたあげくキスを迫るといういかにもな行動をしていますが、小説での今野は日浅ともっと深い関係にあるのでは、と私は思っています。

つまり一人称小説の技として「その部分」は書かないでいるのです。

日浅はバイセクシュアルだったのではないでしょうか。

それを感じた今野は日浅とすでに性的な関係になっていたのではと思うのです。

そう思ったのは夜釣りの焚火の場面です。

流木の話をする日浅に今野は魅力を感じますが、同時に「流木の美質を語るのに二、三のどぎつい比較を持ち出し」て「わたしに対し明確にそれだとわかる当てつけをいった」と書かれています。

これはいったい何の意味でしょうか。続けて二つの文章が意味不明です。

日浅は今野にどういう当てつけを言ったのか。想像するしかありません。

 

「薪でいちばん優秀なのは流木なんだぜ」という日浅のセリフから考えると私は次のように想像します。

 

流木は自然のものでだからこそ最高に美しく燃える。それに比べるとおまえは「自然じゃない」から美しく燃えないんだ。

 

もしこう言われたらさすがに今野が勧められた美味い酒を断ってしまうのも頷けるのです。

そしてだからこそこの物語の『影裏』は善良な人と思えた日浅が悪人だったということだけではなく今野こそが最も深い『影裏』をもっていたということなのです。

表面はふつうの男性、だけど同性愛者だった、だけでなくそのいちばん深い影裏は女性だった、ということを誰にも知られずに生きてきた、ということなのです。

 

今野は前の恋人を別にすれば日浅にだけそれを打ち明けられそして肉体関係も持てたのです。

今野はそういう人生を歩んでいる自分に誇りを持っている、と私は感じていますし、だからこそ大震災後にATMを壊して金を盗むような男に日浅を重ねた今野はそうした犯罪をして生き延びるだろう彼を「頼もしく」思っているのです。

映画での今野はこうした「図太さ」を感じさせず自分を恥じて生きているような後ろめたさのあるゲイ、として描かれているのが不愉快でした。

 

今野は自分の『影裏』を恥じたりはしていないのです。

むしろその人生をじっくりと楽しんでいます。

ラストシーンも明らかに意味合いが違う。

映画では(原作にはない)目の前の恋人よりも好きだった日浅を思い起こすような軽薄な今野がたたずむ場面ですが、小説での今野は珍しい虹鱒の原因を自分の足で確かめようとして上流へ向かって歩き始める、という力強い描写で終わります。

そこで今野は虹鱒を放流している日浅に巡り合えるのかもしれない、という期待があります。

 

小説の終わりころ日浅の父の部屋で今野は「電光影裏に春風を斬る」の文字を見つけます。

この物語のタイトル『影裏』がこの文からきているのでしょう。

この「電光」は「稲妻」であり「影」は「光」をあらわす、と辞書に書かれています。日本語の影ではなく光だというのは不思議で面白いですね。

そしてその意味は「稲妻が春風を斬るようなもので、魂まで滅し尽くすことはできない」とされています。

タイトルの『影裏』は一読して負の面を表すようでいて、実は「魂を滅しつくすことなどできない」という正の言葉をもっていたとは、まさに表面だけ見ていてはわからないことではありませんか。

映画では文章ではなく実際に大きな雷が落ちる、という演出がされていましたが、何らかの意味があったのか、よくわかりません。

 

映画が稚拙であるのは監督の技量のせいで仕方ない面もありますが今野秋一という主人公の誇りを奪い去ってしまうのは許せない暴挙だと私は感じます。

彼の魂を滅しつくすことはできないはずです。

 

「物事の表面だけではなくその一番深い影を見るんだ」という監督自身の言葉をお返しします。

 

映画は原作にない新しい恋人いやエピソードをいろいろ盛り込みましたが原作にある興味深いエピソードをはぎ取っています。

特に日浅の父親が語る日浅の子供時代の事件「黄色いアクリル製の巨大な茸のような遊具のうえに少女が立っていて日浅がそれを見上げている」という場面はとても不気味で映像化すべき場面でしょう。

一番強烈なここを除いてしまうというのが監督のセンスのなさを示しています。

何故なくしたのか????まったくわかりません。

いちばん性的場面でしょう????謎すぎます。

意味がわからないのならわからないなりに感性を見せるべきでした。

 

素晴らしい小説『影裏』の映画化は完全な失敗作でした。

願わくば別の監督による再映画化を期待したいものですが、もしかしたら現在の日本人監督にこの小説を理解できる人がそして映像化できる人材がいないのかもしれません。

韓国映画監督だったらできるのでは、と思います。ちらっちらっ。

韓国映画監督、どうかこの素晴らしい小説を映画化してください。

俳優も韓国俳優さんがきっと上手いし、キャラに合ってるではありませんか。

 

なんという結末。しかし本音ですし、真実なのが寂しいですね。残念。