これもまた見ごたえある面白い映画でした。冒頭のアクションシーンは切れまくってかっこいいです。
ではネタバレしますのでご注意を。
たったひとりで軽やかにヤクザどもをのしてしまうほどめちゃ強い刑事が実は女性になりたいという願望があったら、というお話です。
少年時代に好きになった男の子がいて、という思い出も彼にはあります。
現在ではこうした設定の映画は「性同一性障害」という解説をされてしまうのですが私はこの単純な解説がしっくりきません。
本作はアクション映画として面白く主人公刑事を演じるチャ・スンウォンの演技が丁寧で素晴らしく後輩刑事の兄貴への思いも切なく心を打つ非常に良い映画なのですがそれでも「女になりたい」男の心情をどう解釈すべきかの結論はなかったように思えます。
つまりラストのそのあとで彼がどう思いどうしたかのほうがむしろ気になってくるのです。
それでもここまで細やかに描いた映画作品はまだそれほどないのではないかと思う良い作品なのですが、それでもしつこくその後は?と考えてしまうのです。
さて、彼は「女になりたい」のでしょうか?
それとも「美女になりたい」のでしょうか?
本作の中で主人公がアドバイスを受けます。
女性になりたいならお金が必要だと。そのために彼は再び暴力の世界へ戻ってしまうのです。
さて彼は「女になりたい」のでしょうか?
それとも「美女になりたい」のでしょうか?
もちろんこの映画での主人公は「美女になりたい」わけです。
そして多くの性同一性障害を描いた映画もドキュメンタリーでも「美女になりたい」という設定がいつも語られるのですがなぜかその時発される言葉は「女になりたい」なのです。
「女になりたい」だけならスカートをはく必要もないし、タイトルのハイヒールもはく必要はありません。ネイルも化粧も必要ないのです。
さて、私たちはこれをどう考えていかねばならないのでしょうか?
主人公は「サイボーグ」と言われるほど背が高くたくましく誰よりも強い男、つまり男の中の男として評価されます。
が、心の中では「おんなになりたい」と願い手術して女の体手に入れようとしています。
後輩が彼のことを「兄貴は女型のサイボーグだったんだ」というのですがこれは案外しっくりきました。
つまり彼は女型サイボーグになりたいのです。
どうしてそれがいけないんだ、という人もいるでしょうが私はそこが納得できないでいます。
彼は彼のまま化粧をして女性の服を着る、ということではなぜいけないのでしょうか。
彼は「女になりたい」のではなく「美女になりたい」のですが、その「女」という部分は体のことであって精神ではないわけです。
もしそれが「女としての精神」であるなら彼の進むべき道は違うのではないでしょうか。
だけど「性同一性障害」の物語は必ず体の話であって精神の話ではありません。
「女になりたい」のはなぜいつも体であって精神ではないのでしょうか。
その答えはいまだ見つかっていないように思えます。
それもあって最近はそうした映画から離れていたのですが本作は久しぶりに「女になりたい」話で面白いと思えた映画でした。
寡黙な彼は映画では言葉で言ってくれていませんが「俺はやはり男なんだ」と確認してしまった、のでしょうか。