続けます。ネタバレしますのでご注意を。
山岸凉子著『レベレーション』は『日出処の天子』と違って史実に忠実に描いた、と作者自身書かれていますが、私は同じく作者本人の心が反映された物語そのもの、と考えています。
他にあまり書かれたことがなかった『日出処の天子』に比べ『ジャンヌ・ダルク』を書いた著書はかなり多いと思うのですがそれでも何故山岸凉子はこの作品を描かずにおられなかったのでしょうか。
それはやはり神のみに導かれて生きた「ラ・ピュセル=処女」ジャンヌ、他に男性を愛することのなかった少女の信念こそ山岸凉子そのものだったと私は考えます。
『日出処の天子』は厩戸皇子を同性愛者として描いたことで読者に衝撃を与え話題になりました。
が、厩戸皇子の描写が実は「女性の変化形」であることは作者自身も認めておられたと記憶します。つまり山岸凉子はここで描きたかったのは「優れた才能を持つ女性がただ一つかなわない願い、愛する男性に拒絶される悲劇」であるのです。
その理由が「醜いからだ」とだけはしたくなかった作者・山岸氏はむしろ主人公を絶世の美形にしたのです。そのまた理由はなぜか。山岸氏の極端なまでの美形指向、美形コンプレックスを考えなくてはなりません。
そして主人公が愛した男性=毛人(えみし)から性を拒絶される理由は厩戸皇子とは「男性同士」だからである、という設定を作者は選んだのです。
『日出処の天子』は山岸凉子氏にとって最大であり最高の作品となっています。私もこれほど優れたマンガ作品は他にはないと思っていますがそのテーマにおいて作者は一種の誤魔化しをしてしまいました。
女性で書きたかった主人公を男性にしてしまったからです。
これはよくある〇〇は女だったという話では成り立ちません。
毛人は厩戸皇子が男性だったからこそ拒絶したのであってもし女性であれば性を受け入れていたということは説明されていますし、そのことをのちの作品『馬屋古女王(うまやこのひめみこ)』で実証しています。
「自分の心を描き切ったはずの最良の作品で嘘を描いてしまった」思いは山岸氏の悔いとなっていたはずです。
その思いを描き切ることができるのが『ジャンヌ・ダルク』だったのです。
他にない純粋な愛の少女、神だけを愛するために処女であり続けた女性を自分自身で描くことで『日出処の天子』の欠点を補ったのです。
もしも山岸氏がそうしたことを考えずこの作品を選んだのなら無意識に「己の傷を癒した」のではないでしょうか。
そしてここで登場する神とは山岸凉子がこれまで描き続けてきた理想の男性の比喩でしかありません。
(最近はちょっとかっこいいとすぐに「神!」とか言ったりしますがそれに近いものです)
『レベレーション』の中ではイエス・キリストの姿として登場します。
イエスこそは毛人でありユーリ・ミロノフなのです。
この作品の中にはそれまで一人として山岸凉子が理想とする男性が現れませんでした。私はそれで「初めて山岸凉子が理想の男性を必要としないヒロインを描いた!」と感激していたのですが最期の最後で「ヒロインが作品中ずっと慕い導かれていた神の声こそがその理想の男だった」とわかり愕然としたわけです。
なぜここまで「理想の男性」を絶対必要とするのか、私はうちのめされてしまいます。
もしかしたら山岸凉子作品を好きな男性は多いのではないでしょうか。
男性は「男性不必要」とする作品は嫌うものですし、彼女の作品ほど男性なしに成り立たないものはないからです。
ただしイケメンに限る、ではあるのですが。
ここで「山岸作品で理想の男性を必要としないヒロインはいるじゃないか!」と『テレプシコーラ』の六花(ゆき)ちゃんを挙げる方はおられるでしょう。
山岸作品でヒロインが理想の男性を必要とするのは常に性的な関係であることが必須です。つまり恋人や夫であることになるのですが一部での六花ちゃんはまだ子供で男性を必要とする基準に達していないのです。
第二部では六花ちゃんがまだ性的に未熟であることを自覚する場面があります。山岸氏の「理想の男性」がイコール「性の相手」である必要性から六花ちゃんはまだそこに到達していないために作者から免除されてしまったのです。
わずかに富樫先生がその代役となっています。
六花ちゃんの特別な才能を見出し導くのは彼なのですがやはり理想の男性像として設定描写されていますね。なぜ鳥山先生ではなかったのか。彼のほうが振付家でもあるので接点があったのに?山岸氏の絶対的な好みが働いています。
もしかしたら富樫先生と六花ちゃんのロリータ的な関係もあり得たのかもしれませんが山岸氏はそれは完全に排除してしまいました。作者が嫌いなのでしょう。
そしてロリータ趣味への嫌悪は空美(くみ)ちゃんが担ってしまうことになります。
山岸氏は他作品でも幼女嗜好の男性への嫌悪感を何度も描いています。
強い年上の男性を理想としながら幼女嗜好の男性は嫌悪するという山岸氏の堅い意識があります。
まだ続くかもしれません。