『キリング・ストーキング』で久しぶりに心が動いた気がします。キャラのふたりのどちらも好きではないしむしろむかつくくらい嫌いなのだけど嫌いでも心は動されてしまうしどうしようもなく離れられなくなるのです。それは作品中のふたりが互いを思っている感じにも近いのです。
以下ネタバレしますのでご注意を。
この作品をしばらくいろいろな作品と共に考えてみたいと思っています。
何もなしにすぐ思いつけるのは『キリング・ストーキング』を国家と国民に置き換えてみることです(大笑い)
もちろんオ・サンウが日本国で(韓国マンガなのに日本に置き換えるのは苦笑ですが)ユン・ウジンが国民であるあなた自身です。
ウジン(あなた)はサンウ(日本)を美しいと思い崇拝し愛されたい(=職について評価されたい=金と名誉)と願っていますがサンウは気が向いた時は優しい顔を向けますが大概は思うようにはならないし時にあなたを酷い目に合わせるのです。
現在サンウ(日本)は肉体も精神もずたずたな状態です。一時期は他から憧れられるほどの経済成長を見せたのですが今は哀れな姿に落ちぶれてしまいました。これは最後当たりのサンウですね。最初登場したサンウはこれ以上ないほどの美丈夫ぶりでしたが次第に弱みを見せていきます。しかし彼(日本)に心酔しきったウジン(あなた)はそれに気づかないまま彼のとりこになっています。
やがてサンウ(日本)は破滅してしまいヤン・スンベ(他国)がウジン(あなた)に「もう大丈夫ですよ。幸せになってください」と手を差し伸べてくれるのですがウジン(あなた)はサンウ(日本)を忘れられずその姿を追い求めるのでした。
なんだかもう今現在の日本の姿を描いているとしか思えません。
しかしこういう社会派批判が好みでない方には昨日書いたリリアナ・カヴァーニ『愛の嵐』と『キリング・ストーキング』を重ねた考察をしてみましょう。
『愛の嵐』は映画自体を観たことがなくてもシャーロット・ランプリングの衝撃的なコスチュームだけはどこかでご覧になっているのではないでしょうか。
ナチスの将校と収容所に捕らえられたユダヤ人の少女との異常な関係は戦争が終わってもふたりの精神を蝕んでいた。少女は裕福な人妻となっていたが自ら彼の住み家を訪れる。ふたりは再び狂気の情愛を繰り返していく。
ナチス親衛隊将校と収容所のユダヤ少女という絶対的な力関係。精神を狂気としてしまった恐ろしい体験と逃れられない、というこの関係性を現在の普通の青年ふたりに置き換えるにはサンウとウジンが両方とも子供時代に過酷な虐待を受け続けてきた、という設定が必要となるのです。
などとまるで作者クギ氏が絶対に『愛の嵐』を基盤にして作品を構築したかのように書いてしまいましたが、もし違うのなら私はこの二つの作品の共通項に驚いてしまいます。
まず断っておくともしそうだからとしてもそのことが『キリングストーキング』の価値を妨げることにはまったくなりませんしむしろ若い人が昔のこの映画から一つの物語を再構築したというのであればそれこそ驚くことであると思います。
私が『キリングストーキング』のウジンを観ていてすぐに重ねて思い出したのが上の画像のシャーロット・ランプリングでした。
収容所のユダヤ少女を思わせる痩せた体薄い胸削げた頬のシャーロットは貧相なウジンの姿と重なります。
映画中のエピソードも共通点がいくつもあってもしもクギ氏がまったくこの映画を知らずにあのマンガを描いたとしたら彼女(?)はカヴァーニと非常に近いセンスを持っているに違いありません。
遊園地が登場する、食べ物や衣服を着せるイメージなどは偶然というよりあって当然かもしれませんがサンウにあたる元将校が割れたガラスを踏みつけて足裏を怪我してしまう場面はどきりとするものでした。
『愛の嵐』英語タイトルでは『The Night Porter』
現在では映画として製作するのは困難でしょう。
ナチス将校から権威による性的暴行を受けた収容所のユダヤ少女が彼との情交を忘れきれず自ら求めてしまう、というのですから。
ウジンの行動もまた同じでした。
自ら彼の家へ行きそこに監禁されることになってしまうのです。
足首を折られ様々な暴行を受けてもいや受けたからこそウジンはサンウとの関係を断ち切ることができないのです。
どちらの作品も観る者が「これは愛か?いやこれは単なる暴力であって愛とは言えない」と考えてしまいます。
しかし人間というものは愛のある関係だけを結ぶものではないのが事実でありむしろ暴力と憎しみが関係を終わらせないものであったりします。
しかしそうした暴力による関係は長くは続かないしそれゆえに深い愛なのではないかと錯覚してしまうのです。
クギ氏が自覚して創作されたにしろまったくの偶然だったにしろ『キリング・ストーキング』は現代版そして男性同士版の『愛の嵐』です。
ところで『愛の嵐』のダーク・ボガード氏はむしろ『キリング・ストーキング』をお好みであったのではないでしょうか。
当時のことゆえボガード氏には「単なる友人」とされた男性の同居人がおられたそうです。またこの作品より前に『ヴェニスに死す』で美少年に恋い焦がれて死んでしまう作曲家を演じています(身もふたもない言い方ですが)
オ・サンウと外見は異なりますが役柄のナチス親衛隊将校はそれ以上の脅威でしかありません。
「愛」とは何か、「性愛」とは何か、「真実の恋愛とは」という問いかけの答えが明確に出ることはないのです。
私たちはそうした愛情を思い考え憧れ批判し肯定し否定し危険を感じて逃れ見るか体験者となって狂い死ぬのかを選ばなくてはなりません。